18.綿雪に黙す


 人エネルギーに押し流され呆気なくはぐれてしまったわたしと、誰得な組み合わせで取り残されてしまった天才球児二人。人波に揉まれながら、二人はこんな会話をしたという。


「俺らの間にいてなんで名前がいなくなんの?! わっけ分かんねえ!」
「アイツが阿呆だからだろ! 阿呆は何しでかすか分かんねえから⋯⋯ったく、全然見当たらねえな⋯⋯鳴、電話」
「ウルサイもう掛けてる! 指図すんな!」


 ゴーン。鐘の音無情なり。
 頼みの綱であった電話が繋がり胸を撫で下ろしたのも、ほんのひと間だったとか。

 なぜなら電話に出た声が、べろんべろんの姉のものだったからだ。


「はぁい〜〜名前の電話でっす〜〜〜」
「な⋯⋯姉ちゃん?」
「テーブルの下にスマホ落っこちてたわよお。ねえ鳴〜〜ビールなくなりそうだから帰りに買ってきてねん。あと屋台のお土産もよろしく〜〜」
「⋯⋯この酔っ払いめ! 誰が買うか!」


 鼻息荒く通話を断ち切った兄と一也くんは、目を見合わせ、それぞれ逆方向へと走り出した──人が多くて実際にはとても走れないわけだけれど──。無論わたしを捜索するためで、その無言の投合たるや阿吽の呼吸だったそうな。

 そんなことが起こっているとは露知らず、あれよあれよと人の流れに飲み込まれていたわたしは、とにかく圧死せぬように必死だった。

 ようやく群集から排出された時には、初売り会場で敗北した兵士のごとく擦り切れていた。


「や⋯⋯やっと解放された⋯⋯そしてここどこ⋯⋯」


 数分ぶりに拓けた視界であたりを見渡す。このあと連絡を取り合うとして、まずは目印になるものでも見つけなければ。右を見て。左を見て。後ろを振り返って、そして少し先の屋台の端でこちらに手を振っている人影に気づく。


「おーい、そこのボロボロの女の子ー! 甘酒配ってるからおいでー!」
「ボロボロって⋯⋯わたし?」


 もう一度左右を見渡すけれど、わたし以外に該当しそうな人はいない。少し迷って、足を向ける。

 近づいてみると、大学生と思しき青年たちが景気よく手当たり次第に甘酒を配りまくっていた。


「この人混みにやられたんでしょ、大変だったね。君みたいな子、もう何人も見たよ」
 はい、と手渡された甘酒をお礼とともに受け取る。

「そうなんですね⋯⋯毎年こんなに凄いんですか?」
「んー、そうだね、このバイト三年目だけど、毎年こんなんだよ。誰と来たの? 連絡つきそう?」


 はい、と答えたいのだけれど。
 さっきから探っている鞄の中に、お目当てのものが一向に見当たらないのだ。思い返せばそもそも鞄にしまった記憶がない。絶望的である。


「忘れてきちゃったみたいです⋯⋯スマホ」
「あー、そりゃあ⋯⋯この人混みの中から発見すんのはちょっと厳しいな。一緒に探そうか」
「え、いえ! 大丈夫です! ありがとうございます」
「遠慮しなくていいよ。結構酔っ払いとかもいるから女の子ひとりで歩き回っても危ないし⋯⋯俺らは一人くらい抜けても平気だしさ」
「でも、」
「あ、もしかして警戒してる? 大丈夫だよ、取って食ったりしないから。まあ仲良くなれたらラッキーくらいは思ってるけど。どう?」
「どうって⋯⋯」


 返答に窮する。
 だって、なんかチャラい。大学生ってこんな感じなのだろうか。これが普通? ちょっとわたし野球ばっかりだからよくわかんない。

 どう切り返すのが正解なのだろう。善意は善意なのだろうし、容易く無下にはできない。かといって快諾もできないのだから結局はお断りをするわけで、では、どういう対応が最適解か。

 甘酒片手に途方に暮れていた、その時だった。


「あれ? 妹じゃん」


 背後からかかった何度か聞いたことのある声に、振り返る。この呼び方は。もしかしなくても。


「やっぱり⋯⋯真田さんだ」


 薬師高校。エース。真田俊平の姿が、そこにはあった。

 真田さんって地元この辺なんですか? とか、いい加減その呼び方やめてください、とか。色々言いたいことはあるけれど、何よりもまず、この場をなんとかしてほしい気持ちが勝った。それを視線で目一杯伝える。

 目一杯が過ぎて、きっと、ものすごく酷い顔をしていたと思う。

 しかしそんな必死の形相の甲斐あってか、真田さんの頭上でピコーンとひらめきの合図が光り、「まかせろ」とでも言わんばかりにウインクが飛んでくる。

 次いで彼は、あからさまな他所行きの笑顔でバイトの青年たちへ向き直る。


「いやー、知り合いがすんません! おおかた迷子になってここで保護されたんでしょ。さっきアッチでコイツの連れ見かけたんで俺が連れていきますね! あざっした!」
「いえいえ、俺らは何にもしてないよー、ナンパくらいしか」
「ははっ、そっすか、ナンパね」


 にこやかな表情は崩れていない。それなのに彼の周囲に異質なオーラが纏われた気がして、思わず固唾を呑む。つまり端的に言うと、その笑顔怖いです真田さん。

 何か。兄といい降谷くんといい、そして真田さんといい、高校球児は皆オーラを操れるのか。


「ほら、行くぞ」
「あ、はい⋯⋯あの、甘酒ありがとうございました」
「いいえー。あ、そうそう、世の中には色んな男がいるから気をつけなよ、俺が言えたことじゃないけど」


 踵を返しかけた際にばいばいと振られた手に、反射的に手を振り返す。直後、間髪入れずに真田さんに窘められる。


「こら。そーいうのがダメなんだって」
「?」
「お前も遊びたいんなら別にいいけどさ、そうじゃないならいちいち相手すんな。⋯⋯つーかお前って絡まれやすいのな、気ぃつけろよ」
「はあ」
「何だその気のない返事! こりゃ御幸も苦労が耐えないな⋯⋯」
「なんかピンと来なくて⋯⋯でも、度々助けていただきありがとうございます。適当に合わせてくれて、助かりました」
「いーっていーって」


 朗らかに笑った真田さんは、ダウンジャケットの襟元に寒そうに顎先を埋めてから問うた。


「なに、今日はアイツと来てんの? それとも家族と?」
「あ、一也くんとお兄ちゃんとです」
「へえ、家族公認なんだ」
「公認⋯⋯なのかな。お兄ちゃんにはすごく妨害されますけど」
「ははっ、今時そんな兄貴いんの。超妹想いじゃん」
「ふふ」


 たぶん真田さんは、兄が稲実のエースであることは知らない。彼の頭の中に成宮鳴のことなどこれっぽっちも浮かんでいないことだろう。


「真田さんは? 誰かと来たんですか?」
「俺は家族と。皆自由人だから纏まってらんねーんだわ、どっか行っちまった」
「⋯⋯真田さんもお参りとかするんですね」
「するわ。何だよその意外そうな顔は」
「いえ」
「御幸だってしなさそうなのに来てんだろ。似たよーなもんだよ」


 ──行きてぇしな、夏の甲子園。

 ぽそりと呟かれたひと言は、雑踏の中でもやけにしっかりと聞こえた。

 真田さんも一也くんと同じく、次の夏が最後の夏だ。懸ける想いは、わたしたちと同じ。どんなに汗水流そうとも、どんなに努力をしていても、何もかもを懸けていても。夏の甲子園へ行けるのは、勝者のみなのだ。


「はは、なんつー顔してんだよ」
「⋯⋯え?」
「仕方ねぇだろ、俺らの地区からは一校しか行けねぇんだから。そんな辛気臭え面してないで、もし俺らが夏に当たったらバッチバチにやり合おうぜ!」
「⋯⋯ふふ、はい」


 わたしを見下ろす彼の双眸は、優しいものだった。「そーそー、笑ってろよ」と言って、手が伸びてくる。いつかのように頭をわしゃわしゃと撫でようとでもしたのだろうか。その指先がわたしの髪に触れかけた、その瞬間だった。


「──触んな」


 視界の外から伸びてきた腕が、真田さんの手首をきつく掴んだ。

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