「お、お兄ちゃん〜〜〜」
「名前、こっちおいで、そんな野蛮人どもの近くにいたら危ないよ。てか泣きそうな顔してんじゃん。あー、やだやだ、女の子怯えさせるなんてダッセー。そもそも一也それ誰? なーんか見覚えが⋯⋯」
兄は次々と言葉を発しながらわたしを引き寄せた。そんな兄の姿を見て一也くんは静かに手を離し、解放された真田さんは目を丸くして兄を見た。
「兄ちゃんって⋯⋯マジかよ成宮じゃん」
「え、なにコイツ、俺のこと知ってんだけど。怖っ」
「だってお兄ちゃん、この人薬師の真田さんだよ」
「真田? ⋯⋯ああ、」
どこか合点がいった様子の兄は、真田さんと一也くんを交互に見た。次いで兄の視線は、真田さんの頭頂とつま先を無遠慮に何往復もする。その間、「ふーん。へぇ」だなんて失礼極まりない品定めふうの声を発するものだから、新たにゴングが鳴ってしまうのではないかと気が気でなかった。
しかしそれは幸いにも杞憂に終わり、ひと通り真田さんの観察を終えた兄が、思い出したようにわたしに向き直る。
「ていうか、お前は〜〜〜! 昔からすぐ迷子になる! 何回言ったら分かんの!」
「いたっ」
「電話は酔っ払った姉ちゃんが出るし⋯⋯心配したんだからね」
「ごめんなさい、ほんとに」
「まぁ元気に見つかったからいーけどさ」
軽く弾かれた額をすりすり擦る。
腕を組み、絵に描いたようにぷんすかと怒る兄は、少し可愛い。微笑ましい気持ちになり自然と浮かんだ笑みを、額を擦る腕で隠す。
「で、一也。何があったか知んないけど、どーすんの? 長引くなら名前連れて帰るけど」
「いや、すぐ終わる」
兄が来たからだろうか。
冷静さを取り戻したように見える一也くんは、わたしたちの方へ向かいながら真田さんを振り返り、告げる。
「さっきのだけどさ、どれも全部許すわけねぇだろバーカ」
それは、沢村くんに「お前馬鹿なんだから」と言うときと同じトーン、かつ同じ表情だった。
余裕を含んだその物言いに、真田さんは「ははっ、上等じゃん!」と口角を上げる。スリルを楽しむグラウンドでの姿が垣間見えた瞬間だった。
わたしを完全に置き去りにしたまま話は付き──付いたというのもどこか語弊があるように思うけれど──、真田さんも別方向へと爪先を向ける。方々に散っているという家族とでも合流するのだろう。
去り際、「じゃあなー、名前。今日の話覚えとけよ」と手を振られ、心臓がひやりと縮こまった。
⋯⋯名前、呼ばれた。これまで名前なんて呼んだことなかったのに。わざわざ一也くんの前でそれをやってのけるのか。
もう絶対に確信犯だ。
一也くんもお兄ちゃんも大概だけれど、真田さんも大概だ。この数十分でかなりのHPが削られた。新年神様にお願い事をしたらHPはマイナスに突入するレベルだ。疲れた。すごく。
げっそりと溜め息を落とすわたしの両脇では、元気な兄が「ねえ、結局何の騒ぎだったの?」と問うてくる。その一方で、一也くんは何事かをじいっと考え込んでいた。
ゴーン。境内の鐘の音。雑踏。様々な音が混在する喧騒の中に、どこからともなく「もうすぐカウントダウン!」という声が混ざってくる。
もう、一年が終わるのか。
目まぐるしい一年だった。大きな大きな変化をもたらしてくれた一年だった。忘れたくない日々ばかりだ。こんな一年を過ごせたことに、自然と感謝が湧き起こる。
拝殿に向かう人波に流されながらやや暫くして、どこからともなく新年へのカウントダウンが始まる。もうはぐれぬよう、今度はしっかりと一也くんの手を握って、その瞬間を迎える。
──さん、に、いち、ゼロ!
一際歓声が大きくなる。
新年とは不思議だ。目に見えた変化は一切ないのに、何かが明らかに変わったような、身が引き締まるような。そんな心地に見舞われる。
「ねえ、この神社花火上がんないの?」
「上がってないから上がらないんじゃない? 帰ったらやる?」
「こんな季節に花火なんて売ってねぇわ」
「えー、残念」
冷気で赤く染まった鼻先を揃え、誰ともなしに夜空を見上げる。周囲の音は絶え間ないはずなのに、わたしたちの周りだけ音が夜空に吸い込まれ、途絶えたようだ。
そんな中に、そっと囁く。
「一也くん。お兄ちゃん。今年も、これからも、一緒にいてね」
心の底から呟いたその声は、その途端に戻ってきた喧騒に紛れてしまう。本人たちに届いたかさえ疑わしい。
だから、神様に届いていればいいな、と。そう思った。
◇綿雪に黙す◆