19.月に溺した亡骸の、


 その言葉に、わたしは呆然と彼を見返す。いま、なんて言ったのだろうか。もう少し。保ちそうか? って聞いた? もしそう聞いたのであれば答えは否だし、感覚的には彼もほぼ時を同じくして果てたはずだから、つまり二回目ってこと?

 机に上体を預けたまま、未だ整わぬ息でようやく絞り出せたのが「⋯⋯⋯⋯むり、です」の一言だった。

 なんせ身体に力が入らないのだ。場所のこともあって行為自体は激しくなかったのに、はじめて中で達したことによる摩耗がすごい。あの快楽と引き換えに、体力が内側から抉りとられている。ように思う。

 そんなわたしに彼は可笑しそうに笑いかけ、口を開く。


「なーんてな。これ以上したら激しくしたくなっちまうし。遅くなると鳴のやつ突入してきそうだし」
「⋯⋯⋯⋯戻っちゃうの?」
「ん?」


 衣服を整えてくれようとした手が止まり、物珍しそうに彼は首を傾げた。「なに、やっぱ二回戦のお誘い?」なんて洒落を言う彼だったけれど、眉と目尻が心なしか下がっている。このまま兄の部屋に戻るつもりなのだとわかった。

 不意の寂寥感に見舞われていると、身体を軽々と持ち上げられ、優しくベッドに降ろされる。頬にかかった髪がそっと梳かれた。


「一緒には寝れねえけど、名前が寝るまでここにいるよ」
「⋯⋯いいの?」
「うん。名前、秒で寝そうだし。服はどうすんだ?」
「あ、パジャマがそこに⋯⋯」
「ああ、あれか」


 せっかく整えてくれた衣服を、彼のおおきな手が脱がせていく。肌が顕になるたびそこに、彼は触れるだけのキスを落とした。敏感になっている肌には十分過ぎるほどの刺激で、また身体が熱を持ってしまいそうだった。

 あらゆる箇所に唇を充てがい、最後に太腿の付け根にキスを落として、彼はわたしにしっかりとパジャマを纏わせた。そのまま額を撫でられ、自然と瞼が落ちてくる。


「⋯⋯ほんとに秒で寝ちゃいそう」
「もう時間も遅いしな。俺に不自由させないように気遣って、お前も疲れただろ」
「そんな⋯⋯一也くんこそ」


 瞼が重たい。彼の声が子守唄のように心地よく揺れている。静かに照明が落ちたことを曖昧な意識で認識する。暗闇にぼやけた彼の輪郭を探す。


「おやすみ、名前。可愛かったぜ」


 その言葉を最後に、わたしは夢の中へと落ちた。









「遅ーーーい!」


 鳴の部屋をノックするや否や、怒声が飛んできた。扉を開くと、ベッドに横になりながら天井目掛けてボールを放っている鳴がいた。左手から放たれ、真っ直ぐに上がり、そして真っ直ぐに左手に戻る。見事なコントロールだ。そして滅茶苦茶に俺を睨んでいる。怖ぇ。


「おっそいよ一也!」
「それもう聞いたって。てかまだ起きてたの? 寝たら? 暇なの?」
「ムカつく〜〜〜! 今すぐこの球顔面に投げてやろうか?!」
「ミットねぇんだからやめろよ⋯⋯ほらさっさと寝るぞ」
「俺の部屋で仕切んないで!」


 ぼふす。という間の抜けた音とともに顔面に飛んできたのは硬球、ではなくて枕だった。球じゃなくて何よりだが、眼鏡をかけたままだし地味に痛い。

 鼻根部を擦る俺には目もくれずに電気のスイッチまで歩いている鳴は、尚もぶつぶつと文句を垂らしている。


「なんで俺が一也と寝なきゃなんないの、マジのマジで意味分かんない」
「自分で言ったんだろ、俺は名前の部屋でいいのに」
「⋯⋯今度からは絶対別の部屋用意するからね」
「あ、次のことも考えてくれてんだ? 案外優しいな」


 ダン! という大きな音とともに部屋の電気が消える。スイッチを押す手に渾身の力が込められていたのは、気のせいではないだろう。

 床の布団に潜り込む。眼鏡を外し、焦点を結ばない視界で天井を見つめていると、少しの沈黙を挟んでから鳴の声が問うた。


「名前とちゃんと話は出来たわけ」
「うん」
「アイツ⋯⋯真田って言ったっけ。名前のこと狙ってんの」
「そうなんじゃねぇの」
「ふーん⋯⋯分かってると思うけど、指一本触れさせんなよ」


 暗がりの中で、俺は思わず鳴が寝ているベッドを見遣った。無論見えるはずはないのだが、俺の反応が予想できたのか、取り繕うように言葉が続く。


「勘違いすんなよ。簡単にぽんぽん相手変えられてたら、俺がマジで無理なだけ。こんなの一也で最初で最後にしてよね」
「⋯⋯ぷっくっく、お前もほんと素直じゃないね」
「うざ」


 不思議な心地だった。

 旧知であり、因縁でもあり、好敵手でもあり、彼女の兄でもあり。そんな相手と寝床をともにしているというのは。


「心配しなくても、俺で最後だよ。アイツがそう望む限りはな」
「将来も決まってないガキのくせによく言うよ」
「お前な⋯⋯」


 ああ言えばこう言う鳴の天邪鬼さに、怒りや呆れよりもついには笑いが沸き起こって来る。ほんと、よく次から次へと思い付くもんだ。


「何笑ってんの」
「や、別に。⋯⋯そんじゃ、おやすみ鳴ちゃん」
「うっっっざ」


 目蓋を閉じる。この束の間の休息もあと少しで終わり、また、野球漬けの日々が始まる。次に鳴と会うときは、確実に敵となる。ひとたびグラウンドで邂逅すれば、そこに余計な感情は一切挟まらない。だから、長いようで短い高校生活の、こんな一瞬も。悪くはないなと思った。





◆月に溺した亡骸の、◇

Contents Top