20.花の散るらむ


 ついこの間のことだったのだ。


「苗字。元気でな」


 ついこの間、出逢って、数ヶ月とは思えぬ濃さの時間を共有して、笑って、泣いて、同じ方向を目指した。わたしより二年分を生きている先輩たちは、いつも随分と大人に見えた。いつだって前を歩き、手を差し伸べ、皆を引っ張って進んでくれた。

 そんな先輩たちは、今日、三月七日。この学び舎を卒業する。

 静かにグラウンドを見つめる先輩たちの背中には、量り難い感情がずしりと重く、そして包み込むように柔らかく纏わり付いているように見えた。

 破れた夢。届かなかった場所。皆で紡いだ毎日。ここで過ごした日々が、きっとこの先、先輩たちの背中を押してくれるのだろう。辛酸も。栄光も。全てが。


 ──元気でな。


 そう言ってやわく細められた双眸を見た途端、堪えていたものが込み上げる。


「クリス先輩⋯⋯わたし、もっといろいろ教えてもらいたかったです」
「ああ」
「わたし、先輩みたいに⋯⋯」


 嗚咽に詰まってしまって、上手く言葉が継げなかった。そんなわたしを見下ろして、「ああ、分かってる」とクリス先輩は優しく頷く。「だからそんなに泣くな」と。

 心から尊敬している。
 わたしは二年後、この人たちのような人間になれているのだろうか。


「今生の別れじゃあるまいし。同じ野球に関わってるんだ、いつでも会えるさ」
「⋯⋯はい」


 笑ってみたけれど、笑えていた気がまるでしない。クリス先輩の困ったような苦笑いがその証左だろう。


「ほら、涙拭け。あんまり泣かせると俺が御幸に怒られる」
「ふふ、一也くんがクリス先輩に怒るなんて世界がひっくり返ってもあり得ません⋯⋯むしろ怒られるのわたしかもしれないです。『クリス先輩困らせることすんな』とか言って」
「いや、流石にそれは⋯⋯ない⋯⋯んじゃないか?」
「あははっ」


 今度は笑えていた。と思う。

 今まで“卒業”というものに泣いたことはなかった。どこを卒業しても、兄と一也くんの野球は変わらなかったし。わたしが中学を卒業したときなんて、一也くんと同じ学校に行けることが嬉しかったくらいだし。

 だから、こんな想いを抱ける人たちと出逢えてよかった。仲間として迎え入れてもらえてよかった、と思う。

 こしこしと頬を拭っていると、思い出したようにクリス先輩が何かを取り出した。


「ああ、そうだ。お前にこれをやろう」
「⋯⋯? ノート?」
「俺が三年間で色々まとめたものだ。もう隣で教えてはやれないからな。困ったら俺の代わりにこれを開け。きっとお前の役に立つ」
「わたしで⋯⋯いいんですか? こんな大切なもの」


 もっと適任者がいるんじゃ、と言い掛けたわたしを、クリス先輩は微笑で制した。


「⋯⋯苗字。皆を頼んだぞ」
「──っ」


 こくり。
 言葉もなく頷くことしかできなかった。再び溢れる涙も厭わず、何冊もあるノートを胸に抱きしめる。一生大切にしようと心に決めた。

 そのときだ。


「あーーーっ! 苗字が何か貰ってる! ずりぃ!」
「え、沢村くん、雰囲気ぶち壊し⋯⋯」
「師匠! 俺には?! 俺には何かないんすか?!」
「お前には⋯⋯すまん、ない」
「んぎぃぃぃ」
「ね、猫目! 沢村くん猫目になってるよ! 隠せてない!」


 最後は沢村くんの力によりいつもの騒々しさと明るさが戻る。

 それでも、春には特有の空気がある。寂しくて。切なくて。心が踊って。期待と不安とが、霞にぼやける空気に溶けている。だから、苦しい。息をすると、苦しいのだ。

 思い出話や写真撮影会を経たあとの、最後の“さようなら”を。胸に刻みこんだ。

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