20.花の散るらむ


 そうして三月も終盤に差し掛かった頃。わたしたちはついに、夢の甲子園球場へ来ていた。

 春の甲子園。通称センバツである。

 この場所に来るのは、兄が稲実に行った最初の年、夏の甲子園に出場したとき以来だ。ということは一年と、それから八ヶ月振りくらいだろうか。

 球場に切り取られた空を見上げる。
 あの時とは違う、春の色だ。微かに霞んだような、朧のかかった。

 あの時。あの夏の甲子園は違った。突き抜けるような青空と。空を横切る白球。じりじりと焦がしつける、夏の空だった。


「名前」
「⋯⋯⋯⋯」
「おーい名前ー」
「⋯⋯⋯⋯」
「おいこら名前! 何ぼーっとしてんだ、早くこっち来い!」


 意識の中で、突然ぱちんと一也くんの声が弾ける。その声にはっと視線を戻す。グラウンドの入り口を過ぎたあたりで、一也くんが手招いていた。

 これからバックスクリーンを背景に選手の集合写真を撮るのだ。その華々しい場面を収めるために自分のスマホもポケットにしっかりと持ってきている。


「何? なんかお手伝い?」
「何じゃねぇよ、集合写真! 全員で撮んだから早く来いって」
「え、全員って⋯⋯レギュラーだけじゃなくてわたしも行っていいの?」
「は? 当たり前だろ」


 見てみろよ、と呆れた様子で一也くんが示した先では、既に春乃ちゃんたちマネージャー──ついさっきまでは確かにわたしの隣にいた──が配置に着こうとしているところだった。広いグラウンドだ。彼女たちがこの距離を移動する間、何も気づかずに一人でぼけっと空を見上げていたのだと思うと、非常に恥ずかしい。

 この感じを見るに、マネージャーは集合写真に写らないと思っていたのはわたしだけみたいだ。


「ごめん、わざわざ呼びに来てもらって」
「お前いねぇのに気づいたの、俺が最初だったみたいでさ。いやー、一人でぼけっと空見てんの笑えたぜ」
「ちょ⋯⋯それたった今恥ずかしく思ってたところだから抉らないで⋯⋯」


 含み笑いで肩を揺らす一也くんをじとっと見上げる。それから足元へと視線を落とす。そこには青道の土で汚れた自分の見慣れた靴があった。

 あと一歩踏み出せば。普段のグラウンドとは異なる、甲子園のグラウンドへと足を踏み入れることになる。選手でもない自分が、甲子園の土を踏むのだ。

 まさか、わたしに。
 こんな日が来るなんて。


「どーした? 早く行こうぜ」
「⋯⋯わたしも、入っていいんだね」
「ああ」


 意図を慮ってくれたのか、彼は今度はにやりと口角を上げた。

 何度でも言うけれど、一年前までわたしにとっての野球は、外から見ているだけのものだった。喜怒哀楽、どれもこれも見てきたけれど、直に触れることは敵わなかった。それがどうだ。今となっては甲子園のグラウンドを踏みしめようとしている。こんなところに来れる未来を、あの頃のわたしは夢にも思わなかった。

 ──ほら、来いよ。

 そう言って前を歩く彼の背を見つめる。いつだって追いかけてきたこの背中は、今でもこうして目の前でわたしを導いてくれている。

 そんな彼がくるっと振り返る。そして大股で二歩近づいてくる。何事かと首を傾げてみせた、その瞬間だった。


「来 い っ て !」
「いっ、」


 むきゅ、と鼻を摘まれた。それなりに痛い。その力加減が、少しばかり怒っていることを示していた。


「ったくお前は担がれてぇのか?!」
「ご、ごめんなさい、今度は一也くんの背中に見惚れちゃって」
「⋯⋯何言ってんだ馬鹿、毎日見てんだろ」


 心底“馬鹿”とは思っていなさそうな彼の表情に、胸の奥から愛おしさに似た何かがむずむずと這い上がってくる。そっか。毎日見てるんだ。なんて贅沢なんだろう。一也くんのこと、追いかけてきてよかったな。

 改めてそんなことを思いながら、皆の輪に加わる。フラッシュ。シャッター音。そうして確かにここにいたという証明が、春空とともに切り取られた。

 こうして幕を開けたセンバツ。
 大会五日目の三月二十七日、第二試合。青道の初戦。七回裏。沢村くんにとって記念すべき甲子園初登板となったこの日に、会場を笑いの渦に巻き込んだかの伝説の、華麗なるでんぐり返し投法が爆誕したのである。

 もちろんわたしはスタンドで抱腹絶倒した。

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