20.花の散るらむ


 その日の小夜のことだ。
 試合のデータを纏め、試合で使用した道具諸々を綺麗にし、明日以降のスケジュールや仕事の割り振りを確認し、食事や入浴などを済ませ、ようやく部屋で寛ぎ始めたときだった。

 人差し指と親指でお菓子を摘んだ唯先輩が、それを口に含む前に「そういえばさぁ」と口を開いた。


「名前と御幸くんって二人のときどんな感じなの?」
「ぶっ?!」


 突然の話題に、わたしはちゅうちゅうとストローから吸っていたミルクティーを吹き出した。

 部屋のテレビでは、東京では放送されていない名も知らぬ番組が流れている。


「な、何ですか急に、びっくりした」
「意外とこういう話したことなかったなーって思って。せっかく皆で泊まってるんだし、あれやこれや話したいじゃん」


 気を取り直すように、もう一度ストローに唇を付ける。先輩のその気持ちは、わかる。非常にわかる。わたしだって一介の女子である。けれど、自分の話をするのはあまり得意ではなかった。


「じゃあ、先に先輩たちの──」
「わー! 私も名前ちゃんの話聞きたいー!」
「ぶーっ?! は、春乃ちゃん?!」


 せっかく話の矛先を変えようと思っていたのに。何ということだ。台無しだ。春乃ちゃんのこの天然っぷりは入学してから一年経った現在も健在である。それはそれでなによりです。いやでも、やっぱりちょっと恨めしい。

 二度も吹き出してしまったミルクティーを拭きながら、上目遣いに春乃ちゃんを見る。しかしそこにはにこにこと無垢な笑顔があって、わたしは白旗を揚げた。


「⋯⋯あんまり大した話はできないですけど」
「いやいや、大した話だよ。だってあの御幸だよ? これまで『野球しか興味ありまっせーん』ってスカしてたくせに、いつの間にか名前のこと攫ってんだもん。私達の可愛い名前泣かしたら、アイツタダじゃおかねーぞ」
「あははっ、幸子先輩かっこいい」
「惚れてもいーよ!」
「きゃあ」


 ぐいっと肩を組まれる。小さな身体に見合わぬそのパワーに、わたしはころころと笑い声を出した。


「で、どーなの? あの御幸でもアンタといるとゴロゴロニャンニャン甘えたりすんの?」
「ふふ、にゃんにゃん? しないですしないです、いつもと同じ。あのまんまです」


 そう、基本はあのまんまだ。皆の前のように、相変わらずの性悪さに余裕と不敵が滲む表情。意地悪を言って揶揄っては、案外無邪気に笑う。皆の前の一也くん。

 ただ、時折。
 胸のうちを少しだけ打ち明けて、少しだけ寄り掛かってくれることがある。その“少しだけ”が、狂おしいほど愛おしい。そして、恋人として与えられる触れ合いが、狂おしいほど恋しい。

 ──なんて、この場では言えるはずがないけれど。


「ちぇー、つまらん」


 幸子先輩はぶうと口を尖らせてから、スナック菓子の袋を開けた。それをひとつ摘みわたしの口に餌のように放り込んで、唯先輩が言う。


「まぁ御幸くん、名前には最初っから甘かったしねー。御幸くん的にはもう結構甘えてるうちに入るんじゃない?」
「え、最初からって⋯⋯? 入学当初なんて相変わらずの脈ナシでしたけど⋯⋯」
「私達から見ると、だけどね。それが波及してか、名前がウチに来てから御幸くん少し丸くなった感じもあるよ」


 唯先輩の言葉に、わたしと春乃ちゃんは顔を見合わせる。二人揃って首を傾げてから、丸々と膨れたお腹を手で擬似してみせる。すると唯先輩は可笑しそうに笑った。


「あはっ、違う違う。丸くなったっていうのは、人当たりがさ。確かに鍛えて身体は大っきくなったけどね」
「てかそれ増子先輩のことじゃん!」


 わたしと春乃ちゃんの腹部を交互に指差して幸子先輩が言う。「見る度でっかくなってくよねー、あのお腹! 卒業式の時も凄かった!」と一人頷く幸子先輩を横目に、唯先輩が身を乗り出す。


「そんなことより、ねえねえ、キスは? した?」
「え゙っ?!」


 変なところから変な声が出てしまった。どう返答すべきか咄嗟に判断できず、ごにょごにょと俯く。顔が熱い。体温が上がっていくのが自分でもわかる。どうしたものかと困惑していると、隣に座っていた春乃ちゃんが彼女自身の両頬を覆うのがわかった。


「そ、そんな赤くなられるとこっちまで恥ずかしくなっちゃうよ〜〜〜」
「まって春乃、名前のこの反応⋯⋯ちょっと、まさか名前、その先も?!」
「う、や、その、あの、」
「あんのヤロー御幸! 手早過ぎだろ!」


 急激に熱を持った顔面を、俯いたまま手のひらでぱたぱたと煽ぐ。そんなわたしの周りでは、三者が三様の反応をしていた。

 共通していたのは、差はあれど全員の頬が赤みを帯びていたことくらいだろうか。

 これ以上の話はわたしには無理だ。これ以上を聞かれてもひとつとして言語化して答えられる自信もなければ、その努力をしようとも思えなかった。

 恥ずかしい。
 照れくさい。

 そういう気持ちももちろんある。おおいにある。しかし、それだけではないのだ。

 ──まだ、わたしだけのものであってほしい。

 もっと大人になれば、いつか、こういう話をもっと踏み込んで友だちと話すことがあるのかもしれない。きっとそれも大切なことなのだと思う。

 でも、まだ。
 いや、できることならずっと。

 一也くんとの宝物みたいな日々が、わたしだけのものであってほしいと思ってしまう。そう思ってしまった。

 我ながら酷く稚拙な想いだ。


「もうダメです、これ以上は話せません、いろいろ死んじゃう⋯⋯」
「うん、ちょっと、こっちも死んじゃう。そんな茹でダコみたいな名前見てらんないよー、可愛すぎかっ」
「わっ」


 ぐりぐりと頭を撫でられる。どんな表情で顔を上げたらいいのかわからない。わからないので、これを機に、ずっと伝えたかったことを伝えるべく口を開く。


「あの、今更なんですけど⋯⋯部内恋愛だし、本当に迷惑だけはかけないように気をつけます」


 俯いた状態から、更に小さく頭を下げる。

 名門校と呼ばれる場所で、チームの要である人物と恋愛をしているのだ。何か一つでもマイナスに働くことが決してないよう、それだけは守り抜きたい。

 一也くんを。
 このチームを。


「何言ってんの、この半年で迷惑なんてマジでひとつもなかったよ。寧ろいいことばっかり。だからそのまま仲よしでいてね」
「てかアンタはちょっと気遣いすぎ! たまにこっちのほうが申し訳なくなるくらいなんだっつの、もっとウチらにも甘えろ!」
「うんうん。あんまり頼りにならないかもだけど、私もいるからね!」


 拳を握りしめそう言ってくれた春乃ちゃんに、幸子先輩が意地悪く笑いかける。


「そーそー、迷惑の数で言えば圧倒的に春乃だし」
「さ、幸子先輩!」
「ほんとのことじゃん」


 皆の言葉に、不覚にも視界が潤む。言葉に詰まる。「あはは、ちょっとー、こんなことで泣かないでよー。ほら、これでも食べて」と手渡されたチョコを、一瞬躊躇ってから無理やり口に押し込む。その甘さは、優しく身体に浸透した。

 こうして聖地での夜は更けていく。

 ちなみにこの後、皆の話もしっかりと聞かせていただいたのは言うまでもない。

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