手玉に取られる、という言葉は、こういう時のためにあるのだと思う。
「なあ、いっちょキスでもしてみる?」
「は⋯⋯はい?!?! 何言って⋯⋯」
「いーじゃん、減るもんでもないし。相性抜群かもよ? なんかうだうだ考えてんのも面倒じゃん。どう?」
「っ、しません!!」
「はははっ」
何故こんなことになってしまったのだろう。
事の発端はこうである。
わたしは基本的に、青道の試合がない時は球場に出向き出場校のデータを集めていた。青道と当たる可能性のある学校の試合には渡辺先輩や高島先生も来てくれて、試合に目を凝らしながら対策を考えたり、試合と試合の合間には球場を隈なく探索するなどして甲子園を満喫していた。
そんな折のことだ。
たまたま渡辺先輩と二人で観戦する機会があり、たまたま先輩が「ちょっとトイレ行ってくる」と席を立った、ほんの一時の隙間だった。
整備中のグラウンドを見つめながら頭の中で先程の試合のプレイバックをしていると、今しがた空席となった隣の席に、とさりと誰かが腰を下ろしたのだ。
てっきり渡辺先輩が戻ってきたものだと思い、振り向きながら言う。
「早かったですね、ナベちゃ──」
──ナベちゃん先輩。
そう言い掛けたかたちのまま口をぽかりと開け、我が物顔で隣に座っている人物を見上げる。
その人はわたしの反応に可笑しそうに笑って、片手を上げた。
「よっ」
「さ⋯⋯真田さん⋯⋯」
「おいおい、お化けでも見たような顔してくれるなよ。傷つくわー」
そこに座っていたのは、別枠でセンバツ出場となった同地区のライバル、薬師高校のエース──真田俊平だった。
その刹那、驚愕と困惑とに襲われ、同時に一也くんの顔が脳裏に浮かぶ。
大晦日の一件があってから、このセンバツでは絶対に会わないように気をつけていたのに。何ということだ。
「な、何して⋯⋯」
「そりゃ俺だって他校の試合くらい観に来るよ。練習も大してできねぇし、ホテルでじっとしてんのも暇だしな。アッチに他のヤツらもいるぜ」
真田さんの指先をまっすぐ追うと、薬師のウィンドブレーカーで身を包んだ数人が視界に入る。真田さんもそこで屯してくれてればよかったのに、と心の底から思う。
年の瀬に、神社で。彼の胸のうちを聞いてしまった。直接的な言葉では何も言われていないけれど、でもあれは十中八九、恋愛的な要素を孕んだ“そういう意味”だと思う。それを知ってしまったからには、二人きりのこの状況をよしとはできない。
どうこの場を切り抜けよう。何て言えば真田さんを傷つけずに距離を取れるんだろう。ていうかナベちゃん先輩早く帰ってきて。全力ダッシュでお願いします。
脳フル回転でそんなことを考える。一方で何も気にかけていなさそうな真田さんは、まるで世間話でもするかのようなトーンで続ける。
「ウチにはこーやって情報集めてくれるマネもいねえし、選手層も厚くねえからな。自分らで観に来たってわけ」
「薬師の次の相手は確か⋯⋯山守ですね、双子バッテリーの」
「さっすが。きっとイイ情報も持ってんだろ? 何か一個くらい俺にもちょーだい」
「えっ、いやです」
「ははっ、つれねえな。青道の次の相手は巨摩大か? あの投手のいる」
「はい。すごい投手ですけど、でも負けません」
静かに呟いたつもりだった最後の五音に、自分でも驚くほどの熱が篭ってしまっていた。夏に決勝で兄と戦った相手、というバイアスもかかっているのかもしれない。
「本郷な⋯⋯同じ投手として、俺も感化されちまうんだよな」
「そうですよね。メディアもすごいし」
「メディアって言えば見たか?! ウチの雷市の記事!」
「ふふ、見ました、ご飯食べながら泣いてるやつ」
「あれなー、ウケるよな。もっと別の写真使えよって。つーかもっともっと雷市のこと取り上げろよな」
「⋯⋯」
「? 何?」
「真田さんって⋯⋯自分より、轟くんなんですね」
「はは、俺だって身の程は弁えてるよ。すげえのはアイツだ。東京に留まってていいようなヤツじゃねぇ。だから、ウチの雷市をもっと見ろ! もっと騒げ! っていつも思ってるよ」
「ふふ、なんか轟くんのお兄ちゃんみたいですね、真田さん」
「はあ? どこがだよ。あの親子のことはマジですげぇと思ってっけど、あんな無茶苦茶な親子もいねえからな。頼むから一緒にしてくれるな」
「あははっ」
と笑っている最中で、はたと我に返り顔を引き締める。
真田さんの口からはっきりとした言葉で何も言われていない以上、わたしとしても極端な態度は取ることができない。ただ、薬師の投手と青道のマネージャーという距離感は保ち続けていなければならない。
これまでどこかのチームに属して野球に関わったことがなかったから、兄のチームメイトも、対戦相手も、父母も、監督やコーチも、わたしにとっては皆“野球に関わる仲間”だった。そこに敷居なんてものはなく、いくらでも仲良くなれた。
けれど、今は違う。
わたしは青道の一員で、一也くんという特別に大切な人もいる。自分にとって本当に大切な人を守るために、そしてその人を傷つけるような自分にならないように。一線を引かなければならない。
これは、あの日、あの年の初めの静かな夜に。一也くんの気持ちを聞いてから、心に決めていたことだった。
生きていればこういうことが、たくさんあるのだ。きっと。すべての人と想いを交わしあえるわけでもないし、自分だけが傷つかず、そして傷つけずに生きていける世界も存在しないのだ。たぶん。
だからそういう境界線を、自分の心に明確に引かなければ。と、決意を新たにした、その時だった。
「⋯⋯名前ってさ、“イイコ”だろ」
そんな言葉を浴びせられた。