20.花の散るらむ


「⋯⋯いい、こ?」
「ああ。俺と話してる間、御幸のことが気になって仕方ねぇんだろ。けど目の前の俺を無下にすることも出来なくて、それがより一層御幸への罪悪感になってる。どうせ俺のこと不必要に傷つけらんねぇとか考えてんだろ」
「⋯⋯」
「優しくて、良い子で、──そんで甘いんだ。だから俺にこうしていいようにちょっかい出されんだよ」


 そう話す真田さんの表情は、マウンド以外で見せる穏やかな青年のものだった。割と辛辣な言葉を投げかけられているように思うけれど、その表情のためか言葉の印象が和らぐ。


「俺はさ、一目惚れとかするタイプじゃねぇんだ。だから二回や三回会ったくらいで完全に落ちたりはしねぇけど、でも確実に、名前に惹かれてるよ。だから話したい。もっとお前のこと知りたい。今はそれだけだ」


 真田さんを見れなくて、視線を前方に固定する。トンボがけがもうすぐ終ろうとしていた。相変わらずの神整備だ。


「けど御幸としては面白いわけねぇだろうし、お前も俺と仲良く話すわけにもいかねえよな。逆の立場だったら、とかって考えたりしてさ。でもさ、それって本当に正しいのか? 今だって普通に野球の話してただけだぜ。罪悪感なんて感じる要素一個もないだろ。やましいことはひとつもねぇし、お前の気持ちだってずっと御幸に向いたまんまだ。これのどこが悪いことなんだ?」
「そ、れは⋯⋯」


 言葉に詰まってしまう。

 真田さんの言うことも、わかる。理解はできていると思う。しかし、心がついていかない。

 不安や嫉妬というものは、時として理屈では制御できない感情だ。論理で容易に抑制できるのであれば、そもそもこんな言葉は生まれない。感情は論理の支配下にはない。ありとあらゆる情動は皆、かたちもなければ証明もできない“心”と呼ばれるところで生まれる、不安定で定まらないものだ。だからこそ、揺らがぬ精神や一途な想いに、皆心打たれる。そしてそれを信じ抜くには、強さが要るのだ。

 あの夜、「正直良い気はしない」と真正面から伝えてくれた。口にするのは憚られただろうに、伝えてくれたのだ。だからわたしも応えたい。一也くんが気を揉むことなどひとつとしてないのだと、目に見えるもので示したい。

 そのことを、上手く口にすることができない。どこが悪いことなのかと問われ、その答えを明瞭な言葉に変換できない。真田さんの言葉に、わたしの語彙と理論では太刀打ちができない。

 俯き、硬く唇を結ぶ。すると頭上からあっけらかんとした声が降ってきた。


「なーんてな。こんな屁理屈に惑わされちまうから、甘いんだって」
「⋯⋯え」
「名前っておちょくり甲斐あるのな」
「なっ、」


 人が真剣に考えているというのに、何て人だ。どこまでが本気でどこからが冗談なのか、全然まったくこれっぽっちも判断ができない。なんでわたしの周りはこうも性格に難ありな人たちばかりなのだろう。頭が痛くなる。

 さらに極めつけは、これだ。


「なあ、いっちょキスでもしてみる?」
「は⋯⋯はい?!?! 何言って⋯⋯」


 がばりと顔を上げ、真田さんを見る。わたしの目は、今日一番の驚きに丸々と見開かれているに違いない。対して真田さんは、余裕綽々な笑みを浮かべていた。


「いーじゃん、減るもんでもないし。相性抜群かもよ? なんかうだうだ考えてんのも面倒じゃん。どう?」
「っ、しません!!」
「はははっ。でもほら、こんなに無防備なんだぜ」


 瞬きほどの僅かな間だった。

 ぐっと肩を抱かれると同時に、指先で顎を掬い上げられる。目と鼻の先には真田さんの整ったお顔。いや、まって。思考が追いつかない。近い。ていうか動きが早過ぎる。いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 これはやばい。


「⋯⋯っや」


 咄嗟に──思考はまったく使い物になっていなかったので、脊髄反射の類なのだと思う──真田さんの胸を押し返すのと、「苗字っ!」という焦った声が飛んで来るのが同時だった。

 押し返したことで身体と身体の間に少しだけできた隙間で、身を捩る。「な、ナベちゃん先輩〜〜〜〜」と転がり出た声は、安堵と自責の念とで湿っていた。

 駆け寄ってくる渡辺先輩を認めた真田さんは、笑みを浮かべたまま眉ひとつ動かさずに「何だよ、いいとこだったのに」と口にした。そんな真田さんを静かに見据え、「そこ、僕の席なんだ。いいかな?」と普段通りの穏やかさで伝える渡辺先輩が、まるで菩薩のように見える。背中に後光が差している。


「ああ。悪りぃな」


 そう言って席を立った真田さんは、わたしを見下ろして可笑しそうに笑う。


「ほらな、いざとなればちゃんと拒否れるだろ。俺、力でゴリ押すような趣味はねぇし、名前の気持ちだって御幸から揺らがねぇ。それがはっきりしてればいーんじゃねぇの。知らねえけど」
「た⋯⋯試したんですか?! こんなところで」
「いやー、はっきりさせとけば御幸もお前も安心して話してくれるかなって思ってさ」
「⋯⋯っ、揶揄い過ぎです、もう知りません」
「ごめんごめん。調子には乗った、可愛くてつい。今度からはちゃんとするわ」
「ちゃんとなんてしなくていいです、真田さんとなんてもう話しません!」
「はははっ。じゃあなー」


 言いたいだけ言って颯爽と戻っていく姿を見遣る視界が、滲む。釈然としなさだけが酷く残る。胸が重たい。口から鉛でも詰め込まれたかのように、ずしりとした何かが蠢いている。心のなかがぐちゃぐちゃで、自分が不甲斐なくて、悔しくて、それらが涙となって溢れてくる。

 ただ、一也くんのことが好きなだけなのに。なぜ上手く対応できないのだろう。なぜこんなかたちで掻き回されてしまうのだろう。もっと遣り様があるはずなのに。


「苗字⋯⋯大丈夫? 何もされてない?」
「⋯⋯はい、ありがとうございました。ナベちゃん先輩ほんと神さまみたい⋯⋯」
「え?」


 深く息を吐く。心にもやもやと溜まったものをすべて吐き出したかったのに、胸のつかえはまるで取れない。その間に目の縁を越えてしまった涙が頬を濡らす。それを制服の袖で乱暴に拭う。何度も頬を擦るわたしを見て、遠慮がちに渡辺先輩が問うてくる。


「苗字、その、御幸には⋯⋯」
「⋯⋯言わないでください。大事な大事な甲子園、余計なことは一切ナシで試合してもらいたいです」
「⋯⋯これは、余計なこと?」


 間髪入れずにこくりと首肯する。
 困ったように眉を下げる渡辺先輩から視線を引き剥がし、整備の終わったグラウンドを見つめる。


「泣いちゃってごめんなさい、もう大丈夫です。さ、ばしばしデータ取りましょう!」
「⋯⋯苗字」
「ふふ、ナベちゃん先輩優しいから気になっちゃいますよね。でもほんとに大丈夫です、ほらこの通り!」
「⋯⋯わかった。センバツ終わるまでは黙っておく」


 渡辺先輩の最後の言葉は、選手が入場してきたことによる球場の喧騒にかき消された。

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