20.花の散るらむ



 この部屋に奥村を迎えた日──初対面なのに何故か睨まれた──の夜のことだった。二回のノックのあと、部屋の扉が開く。ノックの仕方、扉の開け方ひとつ取っても個性が出る。これは絶対に沢村や倉持ではない。


「遅くにごめん。御幸いる?」
「ん、ナベか」
「その、言おうかどうかずっと迷ってたことがあるんだけど⋯⋯今いいかな?」
「? どーした?」


 一瞬、去年の秋のこと──ナベが部を辞める辞めない騒動だ──がよぎったが、すぐに打ち消す。あれからのナベを見ていれば、そんな迷いはもうないことは明白だ。

 こんな時間に改まってどうしたのだろう。首を傾げつつ、座っていた椅子の向きを変える。


「そんなとこで立ち止まってないで、入っていーよ。それとも外のほうがいい?」
「えっと、苗字のことでちょっと」
「⋯⋯名前? 分かった。すぐ出る、待ってて」
「うん」


 今、部屋には木村も奥村もいる。だから部屋に入らずに入口で様子を窺っていたのか。

 木村が目線で「行ってらっしゃい」と告げる。その一方で、奥村からは穿ったような鋭い視線が注がれていて、つい苦笑いが落ちる。最初にこの部屋に入ってきたときの睨みといい、この突き刺さるような視線といい。俺、あいつに何かしたっけかな。会ったことはねぇはずなんだけど。

 とまあそれはさておき、取り急ぎ部屋を出て、下の階のベンチまで向かう。この時間だ。人通りは無いに等しい。あるとすれば、いつものようにまだバットを振っているのであろうゾノたちが通るくらいだ。

 少し距離を空けて、ナベの隣に腰を下ろす。ここ数日の名前の様子を思い返してみるが、特段変わったことはないように思う。


「ごめんね、呼び出して」
「全然」
「苗字には口止めされてたんだけど、センバツも終わって時効になったし⋯⋯やっぱり言っておこうと思って」
「口止め⋯⋯?」


 声音に怪訝さが混ざる。
 ナベは逡巡していた。腿の上で指を組んだり外したりを何度も繰り返してから、俺を見て意を決したように口を開く。


「⋯⋯御幸。苗字と薬師の真田って、何かあるの?」
「──!」


 その刹那、自分の周りの空気がささくれだったのを自覚した。ナベが僅かに身を引き、眉根を寄せる。俺の反応を肯定と取ったのだろう。声を顰めるようにして、しかし不思議とはっきり耳に届くように話し始める。


「⋯⋯センバツでの偵察中、試合と試合の合間に僕がトイレに行ってるときだったんだ。何があったかは詳しく聞いてないんだけど、僕が戻って来たときには、真田が苗字に、その⋯⋯」


 ナベは酷く言いにくそうにして目線を下げた。言葉が継がれるまでの数秒が、やけに長く感じられる。


「⋯⋯無理やり、キスしようとしてるところだった」
「⋯⋯⋯⋯は?」


 ⋯⋯は? なんだって?

 ナベが悪いわけでもあるまいに、口から漏れた一言は重たい非難を存分に含んでいた。指先から急速に温度が失われていく。それなのに、身体の芯では怒りがふつふつと煮えたぎっていた。


「苗字も抵抗してたし、真田的にも揶揄ってただけみたいだった。だから何も起こってはいないんだ。けど、冗談だとしてもあんな⋯⋯苗字にあんな顔させて⋯⋯苗字は御幸には言わないでって言ってたけど、やっぱり黙っておけなくて。あの場にいたの、僕だけだったし」


 膝の間で組んでいたナベの手のひらに、力が込められるのが分かった。


「僕の目には、何て言うのかな、苗字の御幸への想いが変に空回ってるように見えた。真田はそうなることを分かっててあんなことしたんじゃないかな⋯⋯ただの想像なんだけどさ。考え無しにあんなことするようなヤツだとは思えないから」


 無言で頷く。

 恐らくナベの言う通りだろう。真田の名前に対する態度は、純粋な好意と言うより、名前が困ったり悩んだりしながら真田を意識せざるを得ないようにするためのものに思える。しかも名前自身のための困惑や苦悩ではない。“俺を傷つけないため”の困惑であり、苦悩だ。

 だからこそ名前は余計に、真田に対してこう思う。話したくない。会いたくない。これ以上近づくわけにはいかない。

 一見防御姿勢を取っているように見えてその実、十二分に真田を意識させられている。しかも名前としては真田を避けている気になるのだから、余程質が悪い。

 その末に俺と名前が少し拗れでもしたら儲けもんってか。

 ──性格悪りぃなアイツ。

 胸の奥の怒りを鎮めるように、深く深く息を吐く。ここで怒っていても仕方がない。もっと他にやるべきことがあるはずだ。


「⋯⋯名前は? どーしてた?」
「真田に怒って、それから⋯⋯泣いてた」
「⋯⋯あんのバカ」


 無意識に舌打ちをしていた。

 ──アイツのこと泣かせたらマジでコロス。

 真剣な瞳でそう呟いた鳴の顔が浮かぶ。口内に苦い味が広がる気がした。

 何故、どうして。自分の手の届かぬところで泣かせてしまうのだろう。何故あいつはいつも、一人で頑張ろうとするのだろう。


「苗字のことだから、きっと今も悩んでると思う。あんな揶揄、取り合わないで流しちゃえればいいんだろうけど⋯⋯ほら、苗字だしさ」
「うん⋯⋯名前だしな、無理だわな」


 壁に預けていた背を離し、立ち上がる。ポケットに手を突っ込む。指先の温度はまだ戻っていない。


「悩ませちまって悪かったな。話してくれてサンキュ。あとは俺がなんとかしとく」


 俺を見上げるナベから、安堵を纏った微笑みが返ってくる。

 不思議だ。ナベがいくら名前のことを話しても、ナベに対しては嫉妬の“し”の字も沸き起こらない。ナベの人柄なのか、秋から築いてきた関係なのか。

 こんなところに、人間関係の機微を感じる。

 同じく立ち上がったナベが、ゆっくりと階段の方へ歩き出す。五歩ほど進んでから、後ろを歩く俺を顔だけで振り返った。


「御幸ってさ」
「うん?」
「苗字のことほんとに好きだよね」


 右足を出しかけた姿勢のまま、思わず硬直する。たぶん、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまっていることだろう。と思った直後、「はは、鳩が豆鉄砲食らった顔ってこういう顔のこと言うんだ」と笑われた。


「や、俺、名前のことはほら⋯⋯てかナベにまでそう言われると俺立場ねぇんだけど⋯⋯いやマジで」
「はははっ」


 穏やかに笑いながら階段に足をかけたナベを追うことはせず、俺はひとり頭を抱えた。

Contents Top