20.花の散るらむ


 翌日、永源戦を終え、細い月が昇りきった頃。自主練のサポートを終え寮に戻ろうとしていた名前を、俺は引き止めた。室内練習場前の自販機のあたりだった。


「コラ、そこの考え過ぎ!」
「?」


 俺の声に、名前はきょろきょろと辺りを見回す。周りには俺と名前の他には誰もいなくて、名前はきょとりと首を傾げる。


「⋯⋯? わたしのこと?」
「そーだよ、ちょっとこっち来い」
「うん?」


 不思議そうな足取りで近付いてきた名前の手を取り、やわく壁に押し付ける。そのまま覆いかぶさるように名前の横に手を置き、勢い余ってついでにぐっと顔を近付けた。俺らの姿は自販機の影に隠れて表からは見えない。と思う。


「か、一也くん⋯⋯?」


 頬に熱を集め見上げてくるその双眸を、至近距離から覗き込む。


「オイ」
「はっ、はい、なんでしょう⋯⋯」


 上気したせいで熱ぼったい潤んだ瞳に、いとも容易く負けそうになる。やっぱこんなとこじゃなくて部屋に行けばよかったかな。そんな邪な思考が巡る。


「なあ⋯⋯お前さ、何考えてんの」
「え、っと⋯⋯? 今日のホームランかっこよかったなっていうのは百回くらい回想しちゃってたけど、その、顔に出てたかな、だめだった? ⋯⋯ごめんなさい(?)」


 ぽけらと問うてくる暢気な名前に、俺はつい、声を荒らげる。


「違っげーよ!」
「うわ、ち、違った、ごめん」
「そんなんじゃなくて⋯⋯ったく、なんで言わねぇんだよ。真田とのこと」
「⋯⋯な、何のこと」
「とぼけても無駄だぞ。ナベから聞いた」


 しどろもどろに目線を逸らしていた名前が、途端に「えーっ!」と声を上げる。ナベから漏れることは想定外だったみたいだ。


「ちょっとナベちゃん先輩〜〜?! 内緒って言ったのに〜〜!」
「ナベはセンバツ終わったから時効だっつってたぞ。ははっ、残念だったな」
「時効?! 何それー?!」


 俺の腕の間で忙しく表情を変えながら、名前は最後にバツが悪そうに俺を見上げた。そこには確かな不安の色が渦巻いている。

 ──ああ、もう。どうして、こいつは。


「⋯⋯お前はほんと、考え過ぎ」
「え⋯⋯」
「確かに俺は、お前が真田と親しくなんのは良い気はしないっつった。もちろん嫉妬もする。けど、別にお前が自ら動いてるわけじゃねぇし、お前の気持ちだって聞いた。だから、無理くりに避けたり無茶苦茶な壁作ろうとしたりしなくていいんだよ。普通にしとけ、普通に」


 じゃなきゃもっと良いように真田におちょくられちまうぞ。

 という言葉は飲み込んで、名前を見据える。俺があの日あんなことを言ってしまったせいで、名前は今、ごちゃごちゃなのだ。自分を顧みず、ひたすらに俺のことを考え過ぎて、こんがらがっている。

 そうさせてしまった自分の稚拙さを恨む。


「でもわたし⋯⋯わたしのせいで一也くんがしんどいのも、それを我慢してくれるのも、無理だもん。そんな存在になる自分が許せない」


 意固地になっているとも見える名前に、ちいさく溜め息を吐く。コッチ方面からのアプローチは、名前には向かないかもしれない。とすれば、少し姑息な気もするが──情に訴えるか。


「⋯⋯じゃあさ、お前のしんどさはどーすんの? お前を想う俺の気持ちはどこに行く?」
「──⋯⋯っ」


 ひと瞬き分、目を見開いて。それから名前はゆっくりと睫毛を伏せた。綺麗に並んだその一本一本の際を、指先でそっと撫でる。


「俺が悪かった。自分の気持ちだけ吐き出して、お前がどう思うのか考えてなかった。だから、頼むから俺のためにしんどい思いすんな、馬鹿」
「⋯⋯だって、馬鹿なんだもん」


 頬に添えた俺の手のひらに軽く頬を預けた名前は、心地よさそうに瞼を閉じた。表情に見合わぬ憎まれ口につい、笑みが溢れる。


「つーか俺のは別にしんどさじゃねぇよ、全部ただの嫉妬だ嫉妬。かっこ悪りぃだろ」
「ふふ、ううん。嬉しい」


 ようやく見れた名前の笑顔に、胸を撫で下ろす。これで名前の気を揉む靄がすっかり晴れるとはいかないだろうが、それでも、何もしなかったよりはマシだと思いたい。

 あの言葉を言わなかった過去には戻れない。だから俺は、この先の態度で名前に示す。そんな自分で在りたいし、そうでなければならなくもある。


「明日、行くんだろ? 稲実と薬師の偵察」
「うん。純粋にオフ明けのお兄ちゃんの試合を見たいっていうのもあるけど」
「鳴が相手だ。薬師は当然、真田が投げる。けど、もう大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「よし。しっかり見てきてくれよな」


 おおきく頷いた名前を上向かせ、すっぽりと覆う体勢で唇を奪う。柔らかな唇が応える。吐息の合間に、囁き問う。


「ほんとにされてねぇんだな? キス」
「うん」


 軽く啄むようなキス。を、何度も繰り返す。名前は唇が触れるその都度、くすぐったそうに笑みを零した。

 ⋯⋯やべ、可愛い。

 あんなことを言ってはみたが、本当はいつだって、このまま閉じ込めてしまいたい。ずっと俺だけのものであってほしい。衷心はそんなものだ。

 出逢った頃から俺に向けてくれるその無垢な瞳は、一体いつまで、そのままであってくれるのだろう。こんな俺を知ってもなお、変わらずにいてくれるだろうか。


「⋯⋯そろそろ戻ろっか」
「だな」


 名残惜しくも自販機の脇から身体を覗かせた、──そのときだ。ざ、と靴底が地を擦る音。俺のものでも名前のものでもないその音に、俺たちは揃って視線を巡らす。グラウンド側から歩いてきた姿に、名前が反応する。


「あ⋯⋯確か、奥村くん。大京出身の、一也くんのお部屋の」


 だよね?
 確認するように俺を見上げた名前に頷き返す。

 夕飯に苦戦していたのか、下腹部あたりを重たそうに押さえながら近付いてきた奥村は、俺たちを一瞥してから自販機に硬化を入れた。名前が声をかける。


「奥村くん。マネージャーやってる苗字です、よろしくね」


 人当たりの良い笑顔を見せた名前だったがしかし、奥村はまたもや一瞥しただけだった。すぐにふい、と視線を逸らし、挨拶もせずにペットボトルを取り出して寮へと向かっていく。

 新入部員らしからぬ態度に呆気に取られ見送っていた名前が、呆然としたままで呟く。


「⋯⋯一也くん、今の、なんだろう?」
「はっはっはっ、相変わらず失礼なヤツだなー」
「相変わらずって⋯⋯一也くんが嫌われてるの? それともわたし? 早くない?」
「俺知ーらね。何もしてねぇし」
「えぇ⋯⋯?」


 わたしなんて今が初対面みたいなものなのにな。足元へと視線を落としてそう呟く名前の視界の外で、奥村がこちらを振り返ったのが見えた。

 相も変わらず鋭く睨めつけてくるその眼光に、俺はぴんとくる。もしかして。名前とここにいたの、見られちまってたかな。

 名前に気付かれぬ位置で、奥村に向けて人差し指を口の前に立ててみせる。

 ──ナイショな。

 そう告げたはずの視線は、しかし呆気なく無視されて終わった。すげぇなアイツ。


「⋯⋯一也くん?」
「ははっ、アイツ可笑しいなー」
「???」
「部屋まで送るわ。遅くなっちまったし」


 差し出した俺の手を、不可解な表情ながらも握った名前の遥か上空。細い月の浮かぶ春の夜空に、新しい風が吹き抜ける。

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