21.きみがみた幻日


 グラウンドに影が伸びる。練習後の影の短長に、日が長くなっていくのを感じる。夕暮れのどこか物哀しい空気のなかに佇むグラウンドは、いつ見ても美しい。


「名前ー! 今日沢村投げるっつーからお前も来いよ!」
「はーい」


 と返事をした直後のことだった。

 わたしたちの間にぬうっと現れたのは降谷くん。一也くんに真正面から対峙した彼は、先に約束をしていた沢村くんを無視して「投げたい」と言った。一也くんも一也くんでその申し出を受けたものだから、約束を無碍にされた沢村くんの頭には当然、角が二本ほど生えている。

 それでも正バッテリーの気持ちは変わらぬようで、お怒りな沢村くんと移動し、室内練習場の入り口で中の様子を窺う。


「おい苗字、どーいうことだこれは」
「わたしに言われても⋯⋯」
「キャップともあろう人間が、エース様相手だからって約束破って贔屓していいのか!」
「そうだね、約束を破るのは悪いと思う。すごく」
「だよな! あーあ! 俺が先に約束してたのになー!」


 一也くんに聞かせるために大声で叫ぶ沢村くんと、明らかに聞こえている顔の一也くん。一応理由があるはずだけれど、と、ここ最近の降谷くんの様子を回顧しながら一也くんが了承した理由を考えていた、その時だ。

 背後からかかった声に、わたしたちは揃って振り返る。
 そこに奥村くんの姿を認め、わたしも沢村くんもぎくりと肩を跳ねさせた。対する奥村くんは、いつもの無表情を貫いていて感情が読めない。どうやら沢村くんのアップに付き合ってくれるらしいのだけれど、この間ひと悶着があったものだから、そしてきちんと和解もしていないものだから、沢村くんとしてはいろいろと物申したいわけである。

 故にあれやこれやと問答が繰り広げられたのち──それでも奥村くんの魂胆はまるでわからない──、突然に矛先が転換される。「それと、苗字先輩」と切り出した彼の平然とした態度は、あの日、自販機の前でわたしたちを無視したことなど歯牙にもかけていないものだった。


「苗字先輩はここで何してるんですか? 投球練習だしマネージャーのサポートは必要ないですよね。⋯⋯ああ、それとも私情ですか。あの人の目に付くとこに居たいっていう」


 そしてこのつっかかり様である。わたしは思わず言葉に詰まった。

 マネージャーとしての立ち位置。選手への介入の程度。一也くんとの距離感。それは、入学してからずっと試行錯誤してきたことだった。実際に先輩や落合コーチに厳しい意見を言われたこともある。その他にも、声には出さずとも様々思っていた部員もいるはずだ。

 それでも、わたしなりに向き合い続けて一年が経つ頃には、皆が受け入れ信頼してくれているのがわかるようになった。一朝一夕では得られない。信頼は、時間をかけて築き上げるものだ。そこには確かに、一年という時間の重みがある。

 しかし、新入生は違う。

 また一から築き上げていかなければならない。自分の存在価値を示さなければ、全国制覇を目指して入学してきた彼らにとってはただのお荷物になってしまう。

 慎重に言葉を選び、口を開く。奥村くんを真っ直ぐ見据え、決して目を逸らさないように。


「⋯⋯私情じゃないよ。⋯⋯選手としての一也くんのことは昔から追いかけてきたから、やっぱり特別な思いはある。でも、練習にはそれは一切挟んでない、つもり。今だって、マネージャーとしてここにいるよ」
「⋯⋯マネージャーとして?」


 この問に答えてくれたのは、沢村くんだった。


「そーだよ! 苗字は御幸先輩じゃなくて俺の球見に来てくれたんだ! 夏からずっと練習付き合ってもらってるし、オフの間だって⋯⋯こいつ、面白いとこに気付くんだよ。相変わらず言語化は苦手だけどな、わはは!」
「⋯⋯」
「まぁお前もそのうちわかるって! 今じゃあの落合コーチも苗字と意見交換しながら見てくれたりするしな!」


 沢村くん、良く言ってくれ過ぎ。

 そう思いつつ、やはり嬉しさは隠せない。自分のしていることは正しいのだろうか。ここにいていいのだろうか。ふとした拍子に訪れるそんな不安を、一瞬で晴らしてくれた。

 それでもぶすりと無表情を貫く奥村くんは、少し何かを思案してからもう一度口を開いた。


「⋯⋯ついでにもうひとついいですか。この際全部言っておきたいんですけど」
「え⋯⋯はい、何でしょう」


 “もうひとつ”と言っておきながら、“全部言っておきたい”と言う。全部、とは。碌に喋ったこともない目の前の男の子に、わたしは一体何を言われるのか。

 素直に怖い。


「先輩は、あの人と付き合ってるんですか」
「あの人⋯⋯って一也くん? そ、そうですけど⋯⋯」


 怖くて敬語にもなってしまうというものである。


「そうですか。じゃああの日キスしてたのは見間違いじゃないってことですね」
「キ⋯⋯っ?!」


 わたしが目を丸くしたのは勿論のこと。その場にいた浅田くんや瀬戸くんも焦ったような、気不味そうな、困ったような、それはそれはなんとも言えない表情をした。例外といえば「まぁ付き合ってるんだしキスくらいすんだろ! 知らねぇけど!」みたいな顔で、そのくせ腹が立つほどにやにやしている沢村くんくらいだ。

 そんな沢村くんを横目に、わたしは地面を見つめる。いろいろなものの合点がいった。情けない限りだ。それに、奥村くんも他人のそんな場面など見たくはなかっただろう。本当に申し訳ないことをした。


「その⋯⋯ごめんなさい」
「⋯⋯正直幻滅しました。選手としてのあの人は凄いと思うけど、仮にも強豪校、全国制覇を目指そうっていう高校の主将が、恋愛にうつつを抜かしているとは⋯⋯まぁあの人なら堂々とやりそうですけど。もう少し節操を持ってください、はしたない」


 きつい物言いに唇を噛む。

 彼の言うすべてが正しいとは思わない。けれど、人目につく可能性のある場所でキスをしたのは間違いがないし、浅慮だった。

 でも、でも。

 それだけで野球に向かう一也くんを否定するのは、間違っていると思う。主将。四番。正捕手。背負っているもの。懸けてきたもの。

 ──何も知らないじゃない。

 自分が怒っているのか、ショックを受けているのか、悲しいのか、冷静なのか、よくわからない。混沌と渦巻いた感情が、鳩尾で蠢いている。ただひとつ確かなのは、その中心に、“わたしのせいで一也くんの評価が下がることがある”という事実が根付いたことだ。為人に関わらず、ただその存在だけで一也くんを下げてしまう。

 胸の奥が、酷く痛んだ。呼応するように喉の奥がつんと痛む。喉頭に力を込め、これ以上何かが溢れてしまわないように蓋をし、ぎゅっと目を瞑る。

 その時だ。

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