21.きみがみた幻日


 その夜、わたしは自室の窓辺から空を見上げていた。半月の昇る夜空に、灰色の雲。風の流れが速い。月が見え隠れして、どこか不安になる。図らずとも重たい溜め息が落ちた。

 だめだ。もやもやする。

 話せばよかっただろうか。一也くんに。本当のことを。なんなら奥村くんも巻き込んで、きちんと話し合えばよかっただろうか。

 しかし、奥村くんだけではない。これからも、この先も、同じことを思う人はいるはずなのだ。

 それに、話したらきっと一也くんは、馬鹿だなって笑いながらこう言う。言ってくれる。「あのなぁ、俺が他人の評価とか気にするように見えるか?」とか「そんなんで悪く言われたって痛くも痒くもねぇしなー。野球の実力には関係ねぇし」とかって。


「⋯⋯絶対言う」


 あまりにもリアリティをもって再生される彼の声に、もうひとつ、溜め息が落ちる。

 彼は本当に気にしないだろう。
 気にするのは、──わたし。わたしが嫌なのだ。一也くんの評価が下がると言いながら、結局、彼に釣り合っていない自分が嫌なのだ。野球と一也くんに対する想いが、何も知らない他人が放つ“恋愛”というたった二文字の言葉の前に霞んでしまうのが、嫌なのだ。

 自信がない。例え誰かに悪く思われても、堂々と胸を張って一也くんの隣に立っている自信が。

 他者一也くんから求められることを拠り所にするのではなく、きちんと自分だけの足で立っていられる。

 そんな強さと自信がほしいと、いま、切に願う。

 そのためには、わたしが。
 わたしが変わらなくては。

 雲が月に掛かる。更に色を濃くした部屋の中で、電源をつけたスマホの明かりだけが目に刺さる。明るい液晶を操作して、電話をかける。ゆっくり六コールほど。もう寝ちゃったかな、そんな杞憂が過ったとき、ぷつりとコール音が途切れる。


「なーにー、名前じゃん、お前からかけてくるなんて珍しい」
「お兄ちゃん。まだ起きてた?」
「うん」


 元気そうな兄の声が答える。生まれたときから聞いているその声だけで、自分でも驚くほどの安堵が押し寄せた。

 思い出すのは遥か昔。
 年子で体格もあまり変わらぬ幼き日、兄に背負われ辿った帰路。何故背負われていたのだったか。怪我⋯⋯いや、睡魔だっただろうか。曖昧なはずの記憶なのに、やけに逞しかった兄の背中と、全幅の信頼、そして燃えるような夕陽、それだけがくっきりと目に浮かぶ。


「新入生どう? 仲良くなった?」
「当たり前。みーんな俺に平伏してるよ」
「あはっ、何それ、仲良くないじゃん」
「いーんだよ。三年生なんだし」
「うわ、横暴」
「俺がいいって言ってんだからいーの」


 云々。変化の多かった四月だから、話が盛り上がる。青道で色んなことが起こっているように、好敵たちにもそれは起こっているのだ。

 皆そうして、夏へと力を蓄える。


「ね、そういえば来週の試合、お兄ちゃんたち帝東とでしょ。似た者同士だね」
「? 誰と誰のこと?」
「えっ、やだ、無自覚?!」
「は⋯⋯?」


 我儘生意気王様気取り投手選手権ぶっちぎりの西東京代表成宮鳴と、東東京代表の向井太陽の対決だというのに。それを楽しみにしている人も多いというのに。


「⋯⋯まぁいいや。青道と市大のあとだから、観ていくからね」
「そ」
「うん」


 先日薬師と対戦した兄の姿が記憶に新しい。長い長いオフの間に得たもの。辛酸を舐め、苦渋を味わい、それにも倒れず研鑽を積み、そうして王様キングは冬眠から覚醒めた。


「⋯⋯そんで、名前。どーした?」
「ん?」
「何で電話してきたのって聞いてんの。こんなこと話すためじゃないんでしょ」
「え⋯⋯」
「何、分かるよそのくらい。何年お前の兄貴やってると思ってんのさ」
「じゅ⋯⋯⋯⋯十六年くらいです」


 呆気に取られ、ぽつりと素直に答える。

 本当は、声を聞くだけで十分だった。
 どんな逆境にも決してめげない兄の存在は、わたしの誇りだ。それだけでわたしは前を向ける。頑張れる。諦めずにいられる。

 それなのに。

 言い当てられ言葉に詰まっていると、兄にしては優しい声音が「ん?」と先を促した。観念して、ちいさく口を開く。


「⋯⋯ちょっと、自信がほしくて」


 掠れるように漏れたわたしの言葉に、兄は何を言うでもなく頷いた、ような気がした。空気でわかる。兄がいまどんな顔をしていて、どんな行動を取ったのか。これが年の功、ならぬ共に過ごした時間の功か。

 す、と兄が息を吸う。微かな呼吸音さえ聞こえる気がして、わたしは静かに耳を傾ける。


「──お前は、大丈夫だよ」


 雲間から月が覗く。半分しかないその月は、しかし目映く闇夜を照らした。その眩しさに目を細める。


「名前は、大丈夫」


 たった一言だ。
 たった、一言なのに。

 こんなにも胸に沁みわたる。わたしを形成する細胞ひとつひとつにさえ沁み込んで、そのくせやわらかく抱きしめられているような。不思議な心地に陥る。

 他人には見せない。
 家族だからこその、兄の顔。


「⋯⋯あー、もう。だめだなぁわたし」
「?」
「⋯⋯ありがとう、お兄ちゃん。ちょっと、ぐっときた。⋯⋯録音しておけばよかったな」
「名前が元気になるまで何回でも言うけど、でも録音すんなら次は高くつくよ」
「じゃあいいや」
「なんだと」
「あはっ」


 一頻り笑ってから、もう一度お礼を告げる。「うん。ちょっとは元気になった? ⋯⋯そんじゃ、またな」と兄が答え、「おやすみなさい」と電話を切った。

 これは、あれだ。このまま余韻に浸って寝てしまおう。考えるのをやめて、このまま。そうしたら明日には色々と漲って、ナイスアイディアのひとつやふたつ浮かぶに違いない。

 そんなことを考えた、直後のことだ。

 コツリ。聞き慣れない音と、窓が軽く揺れる衝撃。見上げていた空から視線を逸らす。その間に、もう一度コツリと、恐らく小石がぶつかるような音。


「⋯⋯あれ、一也くん」


 窓を開ける。寮の下で、キャップを被り左手をポケットに突っ込んだ一也くんが、右手を「よぉ」と上げていた。ざあ、と速い風が吹く。彼の纏うシャツの裾がはたはたと靡いた。

 夜だし周りの目もあるから、可能な限り小声で話しかける。


「どーしたの? わざわざこっちに⋯⋯ていうかコントロールさすが過ぎ⋯⋯」
「まぁ、所詮三階だし」
「しょせんさんかい⋯⋯?」


 彼が投げたのは窓に影響しないくらいの極々ちいさな小石のはずだ。加えて今日は風が速い。それを、高さも距離もあるこの窓に寸分の狂い無く。

 さすが過ぎる。


「なあ、ちょっと話してぇんだけど」


 そう言って彼は玄関を示した。開けてくれるか、の意を汲み、少し逡巡してから頷く。兄から元気をもらっていなければ、頷くことはできなかったかもしれない。

 というか、さっきの今で話したいだなんて。

 ──絶対奥村くんとのことじゃん。

Contents Top