21.きみがみた幻日


 エントランスまで迎えに行く。ロックを解除すると、彼は再度「よ」と手を上げた。


「なに、窓際で電話して」
「あ、見えてたの?」
「うん。だから石投げたんだよ」
「そういうことだったんだ。わたしはちょっと、お兄ちゃんと新年度の近況報告を」
「へぇ。アイツ何か口滑らせたか?」
「それが全っ然! 新入生がお兄ちゃんにひれ伏してるって話ばっかり」
「はは、何だそりゃ」


 ゆっくりと階段を上っていく。
 一也くんのこの帽子の被り方、久しぶりだな。似合う。格好いい。わたしが入学した頃はよくこうして被ってたっけ。などと回想に浸っていると、「おい、聞いてんのか?」と顔を覗きこまれた。


「え、うん、タイム中の多田野くんの話がめちゃくちゃつまらないって話でしょ?」
「は⋯⋯? 窓って案外外からも見えるんだから、気をつけろよっつったの。全然聞いてねぇじゃん。変なやつに部屋特定されたらどーすんだ」


 反射的に出かかった「そんな物好きな人いないよ」の一言を、しっかり飲み込む。こんなふうに心配をしてもらえることを、大切にしたいと思う。


「⋯⋯ありがとう、気をつけます」
「そうしてくれ。てか多田野のそれは何の話だよ」


 そんな話をしながら、部屋に招き入れる。新学期でバタバタしていたこともあって、彼がここに来るのは久しぶりだ。

 同じことを思ったのか、「なんか久々に来たなー」と言いつつ彼が帽子を取ったところで、わたしは「あれ?」と口にした。


「髪の毛、先のほう濡れてる。お風呂入ったとこなの?」
「あー、今日は風呂の時間一番最後だったからな」
「はい! わたし! 乾かします!」
「いーよ、放っときゃ渇く」
「それはそうだけど、やりたいの」
「あ、そう」


 若干呆れの入った声には、「ご自由にどうぞ」の意が含まれていた。そのお言葉に甘え、棚からドライヤーを取り出す。一也くんの髪を乾かせるなんて、そんな滅多にない機会を逃すわけにはいかない。

 床に腰を下ろしてもらい、わたしは彼の背中側に膝立ちで陣取る。
 少し湿り気のある髪に手を通してみる。短髪だから絡まったりはしない。濡れているぶん、いつもより色味が濃い。

 普段より風量を落とし、意外とやわらかいその髪にふわふわと風をあてる。彼は一度「くすぐってぇ」と笑ったきり、わたしに身を任せてくれた。

 静かな部屋にドライヤーの音。指先の感覚がやけに鮮明だ。視界の真ん中で揺れる毛先が愛おしい。


「──⋯⋯」


 ともに過ごすこんな些細な一瞬を、ずっと抱いて生きていきたいと思う。日々の何気ないひと時は、きっとこの先の礎になる。

 たとえ、何が待っていようとも。


「はい終わり。ほんとに一瞬で乾いちゃった。ちょっと物足りないというか寂しいというか⋯⋯」


 俯きがちに胡座をかいていた彼は、一度笑ってから両手を背中側の床について体重を預け、仰ぐようにわたしを振り返った。


「なあ名前」
「ん?」
「奥村に見られてたか? キスしてんの」
「⋯⋯やだ、エスパー」


 ドライヤーのコードを纏めていた手が一瞬止まる。どう返答するか束の間迷ってから頷き返し、ドライヤーを棚に戻す。


「だよなー、アイツのあの態度。夕方揉めてたってのもそれだろ」
「⋯⋯」
「どーせ嫌なこと言われたよな」


 今一度彼の背中に戻り、がっちりとしたうなじに鼻先をうずめる。乾かしたばかりの襟足がこめかみを掠めた。

 今更否定はしないけれど、詳細を話そうとも思えなかった。自分の決意と、そして謝罪。それを伝えようと思う。


「あの日のことで、一也くんのこと誤解されちゃったの。こんなに⋯⋯一也くんはこんなに、誰よりも野球に貪欲で努力家なのに。ほんとにごめんなさい」
「お前が謝ることじゃねぇ。つーか、あのなぁ。俺が他人の評価とか気にするように見えるか? そんなの気にしてたら今頃こんな性格してねーってな、ははっ」


 首筋にわたしをくっつけたまま、彼はあっけらかんと笑った。兄と話す前に予想していた台詞と全く同じものが返ってきて、少し心が軽くなる。その心遣いが嬉しい。そして当ててしまう自分が怖い。一也くんに全振りもいいとこである。


「だからさ、名前。変なこと考えて距離取ろうとしたり離れてったりすんなよ。そんなことしたら⋯⋯許さねぇからな」


 ──許さねぇからな。

 その一言には、“本気で怒るからな”という意味合いが存分に含まれていた。

 なんでわかっちゃうんだろうな。

 わたし自身が変わらなければならないという話は別にして、やはり、彼とのことも考えないわけにはいかなかった。部活中は距離を置こうか。校内ではどうしようか。自主練は、偵察は、データは。あらゆる場面での関係を考えていた。

 それをすっかり見抜かれてしまえば、苦笑いしか出てこない。お手上げとはまさにこんな心地なのだろう。

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