06.涙の降る音


 野球部での生活が始まって、早ひと月ばかりが経過した。このひと月でマネージャーの仕事を徹底的に教えてもらった。これまで言葉として認識していなかった野球に纏わる事象を、既存の単語と結び付けられるようになった。

 たくさん勉強をした。毎日、野球のお勉強を。
 受験勉強さながらに、机にしがみついた日々を思う。随分とたくさんの本を読んだ。楽しかった。ただ見ていただけの事柄をアウトプットできる術を、以前より身につけたことが嬉しくもあった。

 そして、毎日めぐる様々な人間模様。
 誰もが何かを懸命にぶつけていて、ひとりひとりから目が離せない。

 例えばこの子。同じクラスのマネージャー、吉川春乃ちゃん。彼女はおっちょこちょいで、ちょっと違った意味で目が離せない。

 ⋯⋯って言ってるそばから!


「春乃ちゃん! あぶな、いっ?!」
「きゃあ! ご、ごめんなさい〜〜!」


 ぎりぎり間に合わなかった。球が山盛り入ったカゴを片付けようとしていた彼女が、何かに躓き──別に躓くようなものは何もないように見えるけれど──よろめいた。

 それを支えようとしたものの間に合わず、結果的にわたしに向かって球とカゴが降ってきた。それを反射的に受け止めようとしてしまい、その弾みで尻餅をつく。


「わ、名前ちゃん、大丈夫?! ごめんね!」
「平気平気、拾っちゃおう」


 そこかしこに散らばった球を拾おうと立ち上がり──かけたのだけれど。足元に転がっていた球に気付かず、それを踏んでしまった。

 くるん、と球が回転して。
 一緒にわたしも、くるんと回転する。

 一瞬にして視界が何も捉えられなくなった。ドン、と背中にグラウンドの感触。これはどうやら、いや、どうやらどころではなく確実に、仰向けに転んでしまった。

 こんな、漫画みたいに転ぶなんて。


「あははっ、何これ」


 眼前に青空が広がる。
 遠い。遠い空。遥か遠くに悠然と在るそれに、世界の大きさを不意に見せつけられる。

 手を翳してみる。空を背負った小さな手。酷く心許なく見えて、無性に何かを抱き締めたい気持ちになった。


「名前ちゃん?」
「ふふっ、こんなふうに転ぶなんて、わたしバカみたいじゃない? なんか一周回って楽しくなっちゃった」


 こんなふうに地べたに転がって空を見るのは、何年振りだろうか。大きい。大きいな。世界はなんて大きいんだろう。

 指の隙間から空を眺めていると、突然、ぬっと人影が現れた。


「何やってんのお前?」
「一也くんだ、ふふっ」
「み、御幸先輩⋯⋯なんか名前ちゃん、変なスイッチ入っちゃって」
「はあ?」


 わたしの頭上に彼がしゃがむ。逆さまになった彼の顔と、ぱちんと目が合った。どこかから、「名前ちゃん何転がってんだ? ヒャハ!」ともっちー先輩の声もする。

 ということは、他にもわたしのこの痴態を見ている部員がいるということだ。そろそろ起き上がらなくてはならない。
 

「こんなとこで球にまみれて転がってっとバカみたいだぞ」
「あはっ、わたしもそう思ってたとこ」
「何言ってんだ⋯⋯ほら」


 正面に回り込んでから差し出された彼の手を、一瞬逡巡したのちに掴む。ぐいっと引っ張ってくれた。思っていたよりすごいパワーで、一瞬にして立ち上がった、はずだったのだけれど。


「〜〜〜〜〜〜っ!」


 足に走った疝痛に、思わず背筋がぴんと伸びた。その足に体重がかからないよう、咄嗟に重心をずらす。 

 これは。ついさっき球を踏みつけた方の足か。なにやら嫌な予感がする。
 

「? どうした?」
「っ、ううん、何でもない!」


 何とか逃れられますように。聡い一也くんの目から、逃げ切れますように。そう願った頃には、彼は既にわたしの足元に再度しゃがみ込んでいた。

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