21.きみがみた幻日


「御幸塾、御幸塾⋯⋯っと。コンコン! お邪魔しまーす!」


 ガチャリ、いい感じに年季の入ったドアが、少し重たげに音を鳴らす。それを軽快に開け放ちひょこりと顔を覗かせると、ミットの手入れをしていた一也くんの呆れた表情が振り返った。


「お前いまコンコンって口で言っただろ。ノックしろよノック。いくら男部屋っつったって、誰か着替えてたらどーすんだ。例えばそうだな⋯⋯奥村が下脱いでてもいーのかよ?」
「うわ、それは」


 それはわたしが殺されてしまう⋯⋯!

 奥村くんがパンツを替えている場面を想像してしまって、気恥ずかしさよりも恐怖に震え上がった。いくら元々皆が集まる予定だったとはいえ、今後は絶対にノックをしようと誓う。

 と、ここで漸くあることに気が付いたわたしは、ちいさな部屋を見回しながら問う。


「あれ、まだ一也くんしかいないの?」
「ああ。そのうち揃うんじゃねぇかな」
「木村くんと奥村くんは?」
「洗濯物放り込みに行った」
「そっか」


 短く頷いた声が、涼やかに通る。同室者も御幸塾受講者もいない二人きりの部屋には、どこかお澄ましをしたくなるような空気が漂っていた。

 一也くんの机に近寄る。床に膝をつき、机の上に腕を置き頬を乗せる。ミットに丁寧にオイルを塗っている手元に視線を注ぎつつ、ふと思い出したことを口にする。


「そういえば一也くんてね、わたしに執着してるんだって」
「⋯⋯は?」
「奥村くんからはそう見えるらしいよ。ふふ、可笑しいよね。執着してるのなんて、わたしの方なのになー⋯⋯」
「⋯⋯執着では、ねぇだろ。お互い」
「一也くんはね。でもわたしは⋯⋯どうだろう」


 口篭って、視線を落とす。
 だって、一也くんのいないわたしなんて、──わたしじゃないもん。

 あの日。初めて会った日から。
 彼と、彼の野球に焦がれ続けた。

 身の内を焦がすような想いを、何年も紡いで。未だに焼き尽くされない心を、抱きしめながら生きている。もう一也くんのいない日々など忘れてしまったし、どう生きていけばいいかもわからない。

 たまに思う。わたしの一也くんへの気持ちは、いったい何なんだろう、と。

 純粋な恋心だけでは決してない。
 恋とはこんなにも人間の持ち得る数多の感情を内包するものなのだろうかと。不思議で仕方がなく、そして狂おしいほど愛おしい。と同時に、自分という人間の賎劣さが曝け出されて、少し、苦しい。


「あ、まーた考え過ぎてんだろ、お前」
「え?」
「お前がそういう顔してるときは考え過ぎなの」


 とん、と鼻先を彼の人差し指が押す。
 そうかなあ、と視線だけで彼を見上げると、人差し指にそのまま顎先を掬われる。

 視線が、絡まって。


「別にいーじゃん。執着でも何でも、勝手に言わせておけばさ。どうせ当の俺らの気持ちなんて、誰にも分かんねぇんだから」
「⋯⋯っ、」


 軽く触れるキスが落ちる。少し離れては視線を絡め取られ、熱を持った瞳で瞬きを返すと、次には唇を奪われる。

 終わりのないループに捕われ、翻弄される。逃げ場を求めて熱くなった吐息を吐いた、──その瞬間だった。


「来ましたよキャップ! さあ今日も学ぶぞー!」


 ガチャリと開け放たれたドアに、わたしの心臓が一瞬、口から飛び出る。それを慌てて胸の真ん中に戻しながら、触れていた彼の体温を手放す。

 反射的に入り口を振り返りそうになった頭。を、一也くんの手のひらががしっと掴み、振り返ることができぬように固定される。

 一也くん? と見上げた先で、しかし彼は入り口の方を見遣りながら呆れた様子で溜め息をついた。


「⋯⋯だからお前らはノックをだな」


 そう口にしてから、「お前いま真っ赤だから。その顔他のやつに見せんな」と耳元で囁かれる。

 そんな、ことを、言われると。
 余計に赤くなってしまうのですが。ていうか耳に吐息かかったし。

 頬に上る熱を自覚しながら俯くと、背中に沢村くんの声が飛んでくる。


「む! さては! 破廉恥を察知!」
「沢村くん⋯⋯微妙な韻を踏まないでください⋯⋯ていうか破廉恥ってなに⋯⋯」
「破廉恥は破廉恥だろーが!」
「いえ破廉恥の意味を聞いたんじゃなくて」
「? だってお前が破廉恥って何って聞いてきたんだろ」
「いやお前ら破廉恥破廉恥言ってて恥ずかしくねぇの?」
「いや一也くんもだけど⋯⋯」


 できる限り俯かせた顔をぱたぱたと扇ぎながら、部屋の奥に移動してちいさく膝を抱える。隣にはまるで自分の部屋のように寝転がった沢村くんが陣取る。最早見慣れた光景である。

 それから三十秒もしないうちに木村奥村ペアが帰室し、その後続々と参加者が集まってくる。日に日に増えるその人数に、部屋も大分手狭になってきた。


「川上先輩ー、こっちどうぞ。詰めます。ほら沢村くんも! もう少しこっち!」
「ん? おお」


 半回転、沢村くんが転がる。とす、とわたしの大腿にあたったのは彼の側腹部だ。仰臥位から腹臥位になりスペースを空けた沢村くんは、その状態で肘をついて上体だけを軽く上げた。意地でもごろごろ状態は崩したくないようである。


「ありがと。沢村場所取り過ぎだけど苗字狭くない?」
「大丈夫です、場所は取り過ぎですけどね! あ、由井くんも来た! 初めてだね」


 しかしいよいよ狭くなってきた。
 そろそろ隣の部屋との壁ぶち抜かなきゃいけないんじゃ、と小声で零すと、頬杖をついた沢村くんが見上げてきた。


「お前、女の子がぶち抜くとか物騒なこと言うな」
「⋯⋯半分くらいは場所取り過ぎの沢村くんのせいじゃない?」


 こんないつも通りのやり取りを繰り広げていると、ギイ、と椅子を回した一也くんが言う。


「名前、お前上乗っとけ」
「上?」
「俺のベッド乗っとけよ。むさ苦しいだろ」
「ううん、大丈夫だよ。全然むさ苦しくないし、仮にそうだとしても伊達に野球部のマネやってないし!」


 そう真面目に返したところで、突然川上先輩がけらけらと笑い出した。


「あはは、御幸も苗字相手だと大変だなー」
「えっ⋯⋯え?」
「仕方がないとは言え沢村が近すぎなんだよな? 前の御幸ならはっきりそう言ってたんだろうけど、一年生もいるし色々我慢してんだろ、ぷ、くく」
「分かってんなら全部言ってくれるなよな⋯⋯つか笑ってるし」
「いやだって、御幸はほんとになー、こんなとこだけ不器用でさ、はは」
「⋯⋯なんだよノリ」
「何だよって⋯⋯なあ? 小野?」
「うん。安心するよな、御幸のこういうところ見ると。ちゃんと人の子なんだなって」
「おいおい、俺のこと何だと思ってんだ⋯⋯ほらお前も笑ってねぇでさっさと上行け。ったく⋯⋯」


 ぶつぶつと文句を垂れる一也くんに、素直に従う。何もかもが嬉しかった。なんてあたたかな場所なんだろうと思う。この場所があと数ヶ月、夏の終わりとともに変わってしまうということが、とても信じられない。

 最近はすぐこうだ。
 すぐ、センチメンタルになってしまう。

 夏が、迫ってきているからだろうか。

 ベッドに移る途中、入り口近くの壁に凭れている奥村くんと目が合う。もしかしなくても⋯⋯やばかった? 今の会話は奥村くん的にはセーフ? アウト? そんな不安に襲われる。「その、奥村くん、今のは別に──」と慌てて言い訳をしようとして、しかしその視線の鋭さに言葉を制される。


「うるさいです。もう俺も⋯⋯分かってますから」
「⋯⋯わか、る? 何を?」
「そこまで話す義理はないですね。というかさっさと上ってください、落ちますよ。先輩鈍くさそうですし」
「どん⋯⋯っ?! もう、言いたい放題め⋯⋯!」


 相変わらずよくわからないし、可愛くない! と、ぷりぷりしながらベッドへと移動する。

 一歩足を踏み出して。ぎしりと、軋む。一也くんのベッド。

 ⋯⋯一也くんの、ベッド?!

 はたと気が付いたときには、彼の枕をクッションの様に抱え込んでいた。ここで我に返れてよかった。危ないところだった。もしここに誰もいなければ、わたしはきっと枕に顔をうずめながらベッドにダイブして手足をバタつかせていたことだろう。

 そのくらい、このベッドには一也くんの匂いが移っている。


「⋯⋯安心する」


 皆が一也くんの話に集中しているのをいいことに、御幸塾終了時刻まで枕を抱きしめ続けた。

 この数週間後、わたしにとって一世一代の大イベントが幕を開けようとしているのである。





◆きみがみた幻日◇

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