22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 右へ。左へ。
 もう何往復したかわからないその場所で、わたしは今日も今日とて右往左往していた。目の前には「スタッフルーム」と書かれた扉が不動の砦のように聳え立っている。

 ノックをしようと手を掲げては。
 ドアにも触れずに真下に下ろす。

 だめだ。今日も最後の一歩が踏み出せない。やはり今一度シュミレーションを重ねてから訪れよう。と踵を返しかけた、その時だった。

 ──ガチャリ。
 ドアノブが動いて。わたしは思わず「ひ⋯⋯っ?!」と身を竦める。扉の向こうに見えた大柄な影に、更に身が縮こまった。


「どうした苗字。もう一週間になるぞ、こうしてこの部屋の前まで来ては散々迷って帰っていくのは」
「か、監督、気付いて⋯⋯ドアに目でも付いてるんですか⋯⋯?」
「? 何の冗談だ」


 ばっくんばっくんと心臓が脈打っている。なぜわたしが不審な行動を取っているのがバレたのか。不思議でならない。


「何か話があるなら聞くが⋯⋯そんなに言い難いことなのか? それとも女性だけがいいなら少し外すが」


 色味の薄いサングラスの向こう側で動いた視線を追いかける。部屋の中央に置かれたソファの傍らで、高島先生が不思議そうにこちらを見ていた。そしてソファの背凭れから覗いているあの後頭部。落合コーチもいるようだ。


「違うんです、あの、その⋯⋯」


 意気込みだけは売るほど持ってきた。一週間前、兄との電話を終えたその瞬間から、気合だけは備えていた。何通りものシチュエーションを想定しては、何百回とシュミレーションしてきた。

 それなのに。こんなにも怖気付いてしまう。


「なんだ」


 慣れてはいるはずだった。監督の顔貌にも、雰囲気にも、声音にも、オーラにも。しかし、竦んでしまう。それはひとえに、この戦いの勝率が低いからに他ならない。どんなに言葉を探そうとも、どんなに戦略を練ろうとも、監督から許可が下りる場面が想像できないのだ。

 故に腹を据える。

 ここはひと思いに言ってしまおう。悩んでいても仕方がない。どうせ言わなければならないことは同じだ。

 それならば、偽りも虚栄もない。真っ直ぐな想いを。


「東京選抜に兄と、かず⋯⋯御幸先輩が呼ばれてると聞きました」
「兄⋯⋯そうか、稲実の成宮はお前の兄だったな」
「はい。それで、監督。三日目、アメリカとの試合の日⋯⋯五分だけでもいいんです。観に行かせてもらえませんか!」


 勢いに任せて、身を乗り出すようにして。半ば叫ぶように告げていた。

 対する監督の表情は変わらない。変わらず威厳がたっぷりで、まるで蛇に睨まれた蛙にでもなった気分だ。それでもじっと見上げて耐えていると、少しの間のあと部屋の中に入るように促される。扉が閉まったのを確認してから、監督は静かに「理由は」と問うた。

 ──理由。

 そっと、唇を開く。まるで祈るような心地だった。監督が許可をくれますように、ではなくて。わたしの心の真ん中を、一分の狂いも無く言葉にできますように、と。


「完全な私情です。兄も御幸先生も⋯⋯二人ともわたしにとってはすごく⋯⋯どんな言葉が最適なのかはわからないんですけど、すごく、特別で大切なんです。昔からわたしの真ん中には、いつも二人がいます。憧れで、目標で、誇りで、そんな二人がわたしの道標です。その二人が高校生の間に同じチームで野球をするところをこの目で見れないなんて、わたし、一生後悔するなと思って⋯⋯」


 手が震えていた。どれも紛うことなき本音だった。本音だから。吐露した想いに呼応して、身体が震える。声が震える。

 気付けば拳をきつく握り締めていた。


「大事な夏の前、練習試合もあるのにどんなに我儘なことを言っているのかわかってるつもりです⋯⋯でも、」


 ──⋯⋯でも。


「兄が言ってくれたんです。高校でわたしと一緒に野球ができる最後のチャンスだな、って。我儘をお願いせずには⋯⋯いられません。監督、お願いします。親善試合、観に行かせてください⋯⋯!」


 所々躓きながらも必死に言葉を織り成すわたしを、監督は静かに見下ろして。頷くでもなく遮るでもなく、ただ静かに最後まで話を聞いてくれた。


「⋯⋯事情は分かった。お前の気持ちもだ。だがお前も言っていた通り⋯⋯私情だな」


 ずくりと胸が痛む。
 私情であることなど最初から明々白々たる事実であるのに。それを他人に改めて言葉にされると、希望を持つことすら許されないような気持ちにさせられる。


「悪いが部活この場所でお前だけを特別扱いするわけにはいかん。皆、多かれ少なかれ何かを我慢してここで野球に向き合っているんだ」
「⋯⋯、」
「⋯⋯いや、分かってはいるんだろう。だから一週間も躊躇していた。そうだな? それでも、そんなに震えてまで打ち明けた。その気持ちと決意は俺なりに汲んでいる。想いの丈までは分かってやれなくとも、お前の気持ちを理解はしているつもりだ。決して無下にしている訳ではない」
「⋯⋯はい」
「その上で言う。公式戦でもない今回の試合で一個人の我儘を許すわけには、いかない。⋯⋯すまない、分かってくれ」
「⋯⋯っ」


 監督が慎重に丁寧に言葉を選んでくれているのがわかる。本気でわたしの気持ちに向き合ってくれているのがわかる。心根は優しい人だ。心や想い、目に見えないものを大切にしている人だ。知っている。わかっている。だから皆、監督についていく。

 しかしその、監督という立場。
 簡単に個人の我を通してしまえば、集団が乱れ得る。そのことも嫌というほど心得ているのだろう。

 チームと個の間で迷うのは、きっと監督とて同じだ。

 そしてこれが。“監督”として出した、答えなのだ。

 だけど、──だけど。
 頷くことはできなかった。

 諦めきれない。どうしても観に行きたい。でも、じゃあ、どうしたら。試合当日に無断で飛び出す勇気も、チームに迷惑をかける勇気も、皆からの信頼を失くす勇気も、──持っていない。

 これでは我儘で駄々を捏ねたいだけの高校生こどもだ。

 唇を噛む。言葉を継げずに俯く。
 一方で監督も監督でわたしの反応を待ってくれているようで、互いの沈黙が部屋を占領する。

 そんな時間が、どのくらい流れた頃だろうか。ギシ、とソファが鳴って。「あのー、ちょっといいですか。すみませんねぇ、口挟んで」と軽い調子の声が難なく沈黙を破った。

 落合コーチだった。


「私は別にいいと思いますけどね。アイドルのコンサートや遊園地に行くわけじゃないんですし、いいじゃないですか。と言うか一体何事かと思ったら結局野球のことで私としてはつまらな⋯⋯いえ、それはまぁいいんですが」
「⋯⋯」


 今、つまらない、って言った。

 背凭れに肘を乗せ、肩越しにこちらを覗くようにして話す落合コーチを、複雑な気持ちで見る。わたしの援護射撃をしてくれていることには変わりないのだけれど、普段の生活で歪み合うこともなくなったのだけれど、どうしてこう、ちょーっと気になる一言を付け加えるのだこの人は。

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