22.こっちとそっちの真ん中なんだ


「一也くん! 聞いて! きいてーー!」
「う、お、止まれ、止まれ」

 
 どうやらお風呂上がりらしい。
 寮の廊下、首に掛けたタオルでこめかみを擦っていた一也くんを見つけ、全速力で駆け寄る。彼の纏うティーシャツの脇腹あたりを捕まえて、のめり込む寸前で止まる。

 ぶわ、と少し遅れて風が吹いて。洗いたての匂いが微かに香る。

 
「一也くん!」
「何だよ、どーした?」
「聞いて、聞いてっ!」
「聞く聞く聞くから! つーか近ぇよ、声もでけぇし! 落ち着け」
「落ち着けないの!」
「⋯⋯ああそう」


 その瞬間に一也くんが何かを諦めたのがわかった。それには構わず続ける。

 
「東京選抜の! アメリカとの試合! わたしベンチ入って記録員やっていいんだって! わーーーん!」
「は⋯⋯?」
「凄いでしょ、夢みたい。どうしよう」
「色々聞きてぇけどまず何よりもお前の情緒が心配」

 
 溜め息混じりに呟いた彼はわたしの向きを百八十度変え、背をぐいぐいと押しながら食堂脇まで移動した。
 
 ガコリ、自動販売機が鳴る。「ほら、これでも飲んで少し落ち着け、マジで」とベンチに座らされる。少し興奮が落ち着いてきていたわたしは、幾分──否、非常に──照れくさい心地になり大人しくプルタブを引いた。

 ふわりとココアの香りが立つ。


「で、何だって? 親善試合で記録員?」
「そう!」


 わたしの前に立ち、同じく自販機で購入したお茶が流れ込んでいく喉元を見上げながら「そもそもはお兄ちゃんが」と話し始める。

 
「──⋯⋯ああ、それで目赤ぇのか」
「え、赤い?」
「うん。少しだけど。そういう涙ならよかった」


 一通り話を聞いた彼は、隣に腰を下ろしてポケットに手を突っ込んだ。


「まぁ、さすがに鳴とは組まねぇと思うけどな」
「うん、いいの。観に行くどころかベンチに入れるなんて⋯⋯お父さんに一眼レフおねだりしたいくらいだし当日は瞬きさえしたくない」
「ははっ、ちゃんとスコア書けよ?」
「⋯⋯努めます」


 そうだ。途中で摘み出されないためにも、与えられた仕事はきっちりと熟さなければ。国友監督の前で呆けていたら冗談抜きで放り出されそうだ。

 一眼レフは諦めて、隙をみてスマホで隠し撮りか⋯⋯と真剣に考えていると、隣からぽつりと呟きが落ちる。

 
「けどそっか、名前来れんのか⋯⋯」
「?」
「俺が試合すんのにさ、そこに名前が居ねぇことってほぼないだろ。だからなーんか変な感じしてたけど⋯⋯お前が来れるの、俺も嬉しいもんなんだな、と思ってさ」
「ふふ」


 食堂と室内練習場が聳える隙間から空を仰ぐ。すっかり夜の色に変わった夜空だ。自販機の明かりが眩しくて、星は見えない。

 
「それはそうと一也くん」
「ん?」
「なんで教えてくれないの、こんなビッグニュース」
「だってお前ぜってぇ騒ぐだろ。さすがに俺だけじゃどうにもしてやれねぇし、どーしたもんかなって考えてたら名前と鳴が二人で何とかしちまったんだよ。すげぇなー兄妹愛」
「⋯⋯褒められてるような褒められていないような」
「ははっ、半々ってとこかな。鳴じゃなきゃ出来ねぇよ、そんな無鉄砲なこと」


 寮に戻ったら。兄に電話をしよう。そして何よりもまず先に、高校生の間に一緒に野球ができることを喜ぶのだ。






  
「名前、こっち」


 一也くんの声がわたしを呼ぶ。
 ついにやってきた親善試合当日、わたしは一也くんと共に駅構内を歩いていた。

 
「だから名前! こっち! そっちじゃねえって!」
「えっ、あ、ほんとだ」


 改札を通ったところで彼が手招きしていた。上を見る。改めて案内板を確認すると、真反対行きの線路に向かおうとしていた。

 おかしい。そんなはずはない。きちんと確認してから足を運んでいたはずなのに。

 記憶とは異なる自身の行動に首を傾げる。隣を歩く彼は怪訝そうに眉を寄せた。

 
「大丈夫かよお前⋯⋯」
「うん、たぶん⋯⋯」


 なんせ自分の行動を把握できていないものだから、当然返事も曖昧なものになってしまう。
 
 思い返せば朝から予兆らしきものはあった。
 今日という日に興奮しすぎていたわたしは、この週末は実家に帰らず寮で過ごしていたのだけれど、寮での朝食中は「名前ちゃん⋯⋯?! ご飯そんなに食べるの⋯⋯?!」と軽く引かれるほどドーム型にご飯をよそっていたし、出掛けには「名前! 待った! 靴下左右で全然違うよ?!」と玄関付近で談笑していた女の子たちに呼び止められた。その時は楽しみすぎてあんまり眠れなかったから寝惚けてるのかなぁ、と思っていたけれど。今もその状態が続いているとなると違うのかもしれない。

 と考えに耽っていた、その時だった。
 
 
「名前! 前見ろ!」
「いっ?!」


 焦った一也くんの声と。ゴン! という鈍い音。そしてわたしのちいさな悲鳴。それぞれの音が情けなく響いた。
 
 
「いった〜〜〜〜〜」


 状況を認識するより先に、額を押さえ思わず蹲っていた。なんの防御も取らずの正面衝突──のちにその相手は通路の真ん中に立つ大きな地図の掲示板だと知る──だ。非常に痛い。これが漫画であれば間違いなく目の前で星が弾けている。不本意ながらすぐに立ち上がることができない。

 その間、周囲の視線が刺さる気配にみまわれる。蹲った背中に。それはもう痛い程に突き刺さる。恥ずかしい。

 いや、この際わたしの恥ずかしさなどは取るに足らないものである。問題なのは、一緒にいる彼が恥ずかしい思いをしているに違いないということだ。

 ⋯⋯ごめん一也くん。

 まさか彼も思うまい。自分の彼女が、こうもでかでかと存在している建造物に真正面からぶつかろうとは。

 穴があったら入りたい。そう一層項垂れていると、隣に彼が躊躇なくしゃがんだ。

 
「だから前見ろって⋯⋯大丈夫か? 聞いちゃいけねぇ音したけど」
「大丈夫、ごめんなさい⋯⋯」
「全然目離せねぇんだけど⋯⋯どうした?」
「なんか、楽しみすぎて地に足が付かないみたいなんです⋯⋯」
「マジでふわっふわだよ、掴んどかねぇと飛んでっちまうわ」


 次の瞬間には、彼の手のひらがわたしの手を包んでいた。力強く支えられ、立ち上がる。確かに両足で地を踏みしめていることを確認してから、わたしの歩幅に合わせたペースで手を引いてくれる。
 

「⋯⋯ね、一也くん、制服デートみたいだね」
「はいはい、もういくら浮かれてもいーぞ、俺が責任持って連れてくから」
「ふふ」


 しっかりと握られた手を、きゅっと握り返す。こんなの。他に言いようがない。

 デートみたいだ。

 傍目にも見えているだろうか。高校生の恋人同士に。まだまだ至らなくて、不器用で、恋と野球に懸命に生きる。そんな二人に。

 ちゃんと、見えているだろうか。

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