さすがに会場最寄りとなったところで繋いでいた手を離す。今日は多少なりとも報道陣も来ていることだろう。いくら高校生とはいえ、相手は既に球団からのお声掛けもある将来有望な御幸一也なのだ。わたしとの関係が、この先の栄えある経歴に何かしらの傷となるようなことがあってはいけない。可能性はちいさなものでも潰しておくに越したことはない。
そう伝えると、彼はぽかんと口を開けわたしを見た。
「⋯⋯お前ってほんと時々変なこと考えるよな」
「へ、変?」
「うん。つーかそれなら最初から繋いでらんねぇだろ。ほんと、馬鹿だよなぁ」
そう言っていつものように高らかに笑ってみせるくせに、わたしを見る瞳が酷く優しくて。ぼふりと撫でられた頭のてっぺんを押さえながら、少し先の未来を想像して目線を伏せる。
もしこのまま思うような未来が描けたとして。一也くんはプロに行って、わたしは、──わたしは?
彼が高校を卒業したら、わたしたちはどうなるのだろう。
まだ夏も始まっていないというのに、そんなことを考えてしまって。目が伏せったのだ。
「うわあ勢揃い⋯⋯」
会場となる明神大学鶴島ボールパークには、既に大方の選手が集まっているようだった。稲実チームの姿だけはまだ見えない。
それにしても、揃いも揃って名の知れた選手ばかりだ。すごい。改めてとんでもない場に来てしまった。興奮からか緊張からか、ぶるると身震いが起きる。そんなわたしを一也くんが引き連れてくれ、選抜選手一人一人に挨拶と自己紹介をして回る。
「へえ、成宮の妹。よろしくな」
「あー、俺昨日聞いたよ、成宮から。聞いたっていうか一方的に自慢されたっていうか」
「え? 妹だけじゃなくて御幸の彼女もやってるの? 大変だな⋯⋯」
「なになに? 御幸お前彼女いんのかよ? 少し分けろや」
「いや彼女は分けらんねーだろ、どんな僻みだよ」
等々各方面から揉みくちゃにされながらもなんとか全員に挨拶を終えたところで、一也くんがわたしの後方を指差した。
「名前、あそこ。国友監督来たぜ」
「ほんとだ! 挨拶行ってくる!」
国友監督に向かって小走りで駆け寄る。
遠目からでもわかる。この感じ。我らが青道を率いる片岡監督に相通ずるものがある。教師であり且つまだ若いぶん、片岡監督のほうが僅かに雰囲気が柔らかいだろうか。
いや、どっちもどっちにも程がある。何を比べているんだわたしは。
雑念を払うように、がばーっと頭を下げる。数日前から用意していた台詞を捲し立てるように唱える。
「くっ、国友監督、初めまして! 苗字名前です。この度はこのような貴重な場にお呼びいただき本当にありがとうございます。昨日は嬉しくて楽しみで眠れませんでした⋯⋯今日は精一杯サポートします!」
「こちらこそ急なオファーにも関わらず快く引き受けてもらい感謝している。日本の野球を十二分に示せるよう、是非君の力を貸してほしい。そして存分に楽しんでいってくれ」
「⋯⋯っ! はい!」
かけられる声は低く落ち着いており、それでいて不思議と士気を掻き立てられるものだった。
きっと言いたい事は死ぬ程あるはずだ。「お前の兄は一体どうなっている」「我儘放題で付き合ってられん」等々、ご不満の数々は想像するに余りある。しかしそれを微塵も感じさせない。そもそも今回の発端はわたしと兄の我儘から始まったものであるのに、国友監督はあくまでも「急なオファー」との身構えを取ってくれている。そしてわたしを“成宮鳴の妹”ではなく一個人として認め、チームに迎え入れてくれるその姿勢。
これが、──国友監督。
初めて対峙するその為人を自分の中でかたち作っていたその時、国友監督の後ろに控えていた人物がとあるものを差し出す。
「監督、これを」
「ああ」
その手に見えるのは、濃紺のキャップ。「JAPAN Tokyo」と印されたそれは、紛れもなく。
“一員”の証だった。
「今日はこれを被るといい」
「⋯⋯っありがとう、ございます」
受け取ったキャップを抱きしめる。それを見下ろす監督の、生まれてこの方にこりとも動いたことのなさそうな口周りの筋肉が、ほんの僅か緩んだ気がして。わたしはしぱしぱと瞬く。
そんな折だ。
「ねぇ誰あれ?! あんな優しいとこ見たことないんだけど! 俺らあんな優しくされたこと一回もないんだけど!」
とても小声とは言えない声量で、喧嘩腰甚だしい台詞が飛び込んでくる。台詞を取っても声音を取っても出処は兄以外には考えられない。予想はしていたけれど、よくもまあこの人相手にそんな口を利けるものだ。
あわや目の前で国友監督の怒り噴火か。と恐れ、身を竦める。しかし監督は──当然聞こえていたはずだけれど──表情ひとつ変えず、ただ無言で踵を返した。
ほっとしたような、後が怖いような。
ほんとお兄ちゃんてば⋯⋯と思いつつ振り返ると、兄を筆頭に稲実から選抜された四名が揃っていた。兄以外の三名と話すのは去年の夏の大会以来だろうか。いや、甲子園に行っている兄と電話をしていた時にカルくんと話した、か。そうだ。あの時は兄が荒ぶって携帯を投げ飛ばすなどしてご迷惑をお掛けしたんだった。
そんなことを思い出しながら駆け寄る。
「久しぶりー! 来たよー!」
「おー、来たな。なんか会うたび育ってんじゃん」
「ほんと? カルくん。どこどこ? どこ大人っぽくなった?」
「胸」
「「おいコラ」」
びしり、カルくんの人差し指が躊躇なくわたしの胸元を指す。その瞬間、兄と一也くんの双方からお咎めが飛んでいた。
「何だよ? 聞かれたから正直に答えただけだろ」
「名前のことそういう目で見るな! つーか名前のこともう見ちゃダメ!」
「ハハッ、また何か言い出したぜうちの
「そーだぞ鳴、これから一緒に試合しようってんのに見んなは無理だろ」
「一也だって怒ってたくせに急に手のひら返してんじゃねーよ!」
「いや、鳴の言ったことの前半には賛成だぜ。後半に異を唱えてるだけで」
あーでもない。こーでもない。
まるで無意義な時間が流れゆく。そのうち外野そっちのけで兄と一也くんの犬も食わない言い合いに発展してしまう。まぁいつものことなので一同で放っておき、わたしはカルくんの隣に移動する。
「ねーカルくん」
「ん?」
「お兄ちゃん、今回のことあんまり教えてくれないんだけど、大丈夫だった⋯⋯?」
思い出す。あの夜。わたしを記録員として招集したい、と連絡があった日の夜だ。わたしは兄に電話をしていた。ベンチに入れることになった感動やら感謝やらをほぼ一方的に伝えまくったあと、訊ねてみたのだ。
当初の予定とは違った兄の行動を。
「お兄ちゃん。どうしてお兄ちゃんも動いてくれたの? 片岡監督が手強いと思ったから?」
「ん? いや、そっちのことは名前が何とかするっつったんだから、何とかするでしょ。心配してなかったよ。ただ、名前があのグラサンのオッサンと戦うって時に何もしてないのが性に合わなくてさ。俺も俺でやりたいようにやらせてもらっただけ」
「⋯⋯ふふ、本当に嬉しかった。結局わたし一人じゃどうにも出来なかったから。けど一週間も決闘したんでしょ? もし監督の気に障って選抜メンバーから降ろされでもしてたら⋯⋯」
もしもの不安を口にした。すると兄は「あっはっは」と豪快に笑ったのだ。
「このくらいで降ろされてんなら、俺はとっくにウチのエース外されてるよ。つまりそれだけ俺の実力があるってこと! ざまーみろ!」
「あは、誰にざまーみろしてるの」
といった具合で、本当のところを知ることは出来なかったのだ。
故に今、こうしてカルくんに問うている。
これだけの我儘を通したのだ。メンバーから降ろされるとまではいかなくとも、何かしらのペナルティ──全校の廊下拭き掃除やランニング百周追加みたいな──が課されていても何ら不思議ではない。
「あー⋯⋯いや、名前ちゃんは知らねぇ方がいいと思うぞ」
「えっ、やだ、怖い」
やっぱり何かしらの想像を絶するペナルティが?! と顔を青くしたわたしを見て、カルくんは可笑しそうに笑う。
「はは、なんつってな。ちょーーーっと喧嘩になってただけだ。まぁいつものことだな」
「⋯⋯そのちょーーーっとって絶対ちょっとじゃないんだよな〜〜〜」
「気にすんな。あいつもただ名前ちゃんと野球やりたかったってだけだし、結果オーライなんだから。俺も一緒に野球できて嬉しいぜ。ほら、楽しむんだろ」
「⋯⋯うん! ありがとう! 楽しむ!」
こうして奇跡の日の幕が上がる。
ちなみに兄と一也くんは、見兼ねた各校のしっかりさんたちにしっかりと仲裁されていた。