「! 乾さん!」
咄嗟にガタリと立ち上がっていた。
四番打者の振り抜いたバットの先が、乾さんの後頸部に直撃したのだ。
乾さんの身体が傾いで。体躯を支えるように両手が地につく。掴んだはずのボールはミットから静かに転がり出て、グラウンドの土の上で止まった。
ベンチ内でも皆が焦った素振りを見せる。そんな中、一瞬で頭に血を上らせた梅宮さんだけが「てめぇ! やりやがったな!」と乱闘体勢を整えていた。流石と言うか、いやはや何という血気の盛んさだ。それをしっかりさん達が慌てて制している。
乾さんはというと、すぐに立ち上がり打者をきっちりとアウトにしたあとで、ベンチに戻ってきた。その挙動を見る限り大きな異常はなさそうだったけれど、状態を確認するため一旦ベンチから下がっていく。
数分後にベンチに戻ってきた国友監督に、恐る恐る問う。
「監督、乾さんは⋯⋯」
「預かった選手に無理はさせられん。大事をとって休ませる。⋯⋯御幸。頼めるか?」
その言葉が放たれた瞬間、心臓が酷く強く脈打った。なんだか信じられなくて、ゆっくりと一也くんへと視線を移す。
「一也くん⋯⋯が⋯⋯? 捕るの⋯⋯?」
「⋯⋯はは、やべぇな、名前」
「や⋯⋯やべぇよ一也くん⋯⋯」
彼の言葉を阿呆のように繰り返す。
彼が言った「やべぇな」は、きっとわたしに向けられたものだ。「やべぇな名前、お前の望み通りになったじゃん」と。
──夢みたいだ。
東京選抜の話を聞いた時から、このシーンを何度も夢に見た。起こり得ないだろうとは思いつつ、期待を捨て切ることは出来なかった。二人が同じチームにいるところを見られるだけでいいと言いつつ、心の奥底には傲慢な欲望が巣食っていた。
興奮で火照った顔で改めて一也くんを見る。ここで気が付く。彼がどこか神妙な表情をしていることに。
「あ⋯⋯」
自分の喜びばかりに気を取られてしまっていた。真っ先にわたしの気持ちを慮ってくれた彼は今、どんな気持ちでいるのだろう。
幼い頃からの腐れ縁。投手と捕手という特別な関係。最後の夏を懸けて戦う最大の好敵手。期待が勝るのだろうか。それとも緊張? 夏目前のこの時期にどうバッテリーを組むべきか、という迷い?
わたしには実際に試合をする選手の心の細部まではわからない。わかりたいと思うけれど、当事者でなければそれは味わえない。手にできない。
しかし、それでも。
いや、だからこそ。
一番傍で、ずっと応援していたいのだ。わたしの人生を作ってくれた、二人のことを。これまでも。これからも。ずっと。
「──⋯⋯、」
涙が滲む。打席から戻ってきた兄の姿が滲んでいる。プロテクターを着ける一也くんの姿が滲んでいる。
兄は守備の準備をしながら一也くんたちと数言を交し──一也くんは稲実メンバーに囲まれいつも通りの当たりの強さを浴びていた──、それからわたしを見た。
「って、え?! 何名前もう泣いてんの?! 俺と一也がバッテリー組むからって? は? ちょっと俺の妹可愛過ぎない?!」
「はっはっはっ、なに鳴、本音ダダ漏れじゃん。でも分かるぜ、可愛いよなぁ」
指摘されてから自身の発言に気が付いたのか、兄は「なっ、ばっ、一也おま」とよくわからない声を出した。
兄から「可愛い」を言葉でもらったのは、何年振りだろうか。思い出せない。態度や言動から兄の愛を感じることは多々あれど、言葉にしてもらったのはもしかすると初めてかもしれない。
というか一也くんも一也くんである。
青道の部員がいないからか、舞台が世界だからか知らないけれど、何だか気が大きくはないだろうか。普段であれば人前で、いや、例え二人きりだとしても「可愛い」とは滅多に言わないのに。彼も彼でのちに後悔しそうな発言である。
わたしとしてはどちらも非常に嬉しいのだけれど。なんてことを、ぐじぐじと泣きながら思う。
兄の珍しい反応を周囲が茶化す。次第にボルテージが上がった兄は、「あーもう全員うるっっっっさい!」とついに啖呵を切った。
「ほら騒いでんじゃないよ! 負けてんだからしっかり頼むよお前ら! 点取って俺に楽させてよ!」
「ははっ、騒がしくさせたどの口が言ってんだか。てか守備からだし」
笑った一也くんが、ベンチの際からわたしを見下ろす。それを見返し、ゆっくりと頷く。
「うん、やっぱりその姿が一番似合う」
「俺もこれが一番しっくりくるわ。⋯⋯じゃ、行ってくるぜ」
「行ってらっしゃい」
掲げた右の拳と。一也くんの左手のミット。二つが合わさるか否やというその瞬間、そこにむぎゅりと何者かのグローブが加わる。顔を向ける。言うまでもなく、兄の右手のグローブが割り込んでいた。
「ふふ、行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
「泣いてないでちゃんと見てろよ、これがお前の一番見たかったことなんだろ」
「──うん」
じんわりと沁みる感覚を、心の中で抱きしめる。
マウンドから一也くんを見るお兄ちゃん。本塁でお兄ちゃんを見返す一也くん。お兄ちゃんが投げて。一也くんが捕る。広大な世界の中で、たったの十八・四四メートル。そこで織り成されるこの夢のような現実を。
瞬きもせず目に焼き付けた。