22.こっちとそっちの真ん中なんだ



 東京選抜から計八つの練習試合を終え、ついに夏大のレギュラーが発表された。それはあまりにも正直で、あまりにも残酷な現実だった。

 高校生という貴重で二度とはない短い時間。そのすべてを野球というものに注いできた。誰に褒められるためでもない。ただ、いつか誓った自分に負けないように。まだ見ぬ高みを目指すために。己を見失い何を求めているのかわからなくなった日々でさえ、野球に打ち込んだ。

 それでも叶わぬものを知る。
 
 ここは、そういう場所だ。

 昨年の夏、この現実を目の当たりにした。だからわかっていたはずだった。毎年この現実がやってくることは。わかっていたはずなのに。

 共に積み重ねた年月の分だけ、重みが増す。彼らの姿を間近で見ていた期間が長い分、重たくて。重たくて。心にずしりとのしかかる。

 片岡監督の言葉に溢れ出した彼らの涙ひと粒ひと粒が、確かな重力を携えて地面に染み込み消えていく。幾人もの涙がこうして刻まれ、青道の伝統が作られてきたのだ。

 




 寮生だけが残る夜、わたしはグラウンド脇のベンチにひとり腰を下ろしていた。何かがあるとグラウンドを眺めるのがいつからか癖になっている。いつからなのかは定かではない。定かではないけれど、随分と昔からなのではないかと思う。

 ──ここはいい。晴れでも雨でも雪でも、いつも変わらない。わたしたちがどんな想いを抱えていようとも。だからグラウンドを見つめていると、心が少し、凪ぐ。

 ぼうっと呆けるわたしの頬を、さわりと風が撫でる。初夏の匂いだ。委ねるように瞼を閉じていると、ザッと地面が擦れる音のあと、控え目にわたしを呼ぶ声があった。


「苗字」
「⋯⋯ナベちゃん先輩」
「隣、ちょっといい?」


 頷く。渡辺先輩はそれを見てから、隣にゆっくり腰を下ろした。わたしたちの間を、さわさわと穏やかな風が抜けていく。


「苗字、目、赤いよ」
「⋯⋯ナベちゃん先輩も」
「はは」


 熱を持ち腫れぼったい目で、同じ目をした先輩を見返す。先輩は少しだけ笑みを浮かべてから、膝の間で組んだ自身の指先に視線を落とした。

 
「⋯⋯何も言わなくていいんだ。けど、少しだけ聞い──いや、話したくて。僕がただ、今のこの気持ちを言葉にして整理したいだけなんだと思う」


 静かに落ちるその声に、こくり、頷く。

 先輩の言う「何も言わなくていい」は、きっと半分は本当だ。そして恐らくもう半分は、わたしのため。わたしが言葉に困らないように。どんな言葉をかけたらいいのだろうと、わたしが悩まなくていいように。こんな時にまでそういう気の回し方をする人だ、渡辺先輩という人は。
 
 
「⋯⋯分かってはいたんだ、レギュラーに選ばれないことは、ずっと前から。試合にだって出られてないし、自分からマネ転向を申し出たことだってあったし⋯⋯けど、分かっているということと、受け入れているということは⋯⋯やっぱり別物だから」


 先輩の声はただ静かに、夜風の上をゆらゆらと伝う。
 

「あの時、去年の秋⋯⋯諦められなかったからこそ、今日までバットを振って、ボールを追いかけてきた。偵察とか情報収集の傍ら、“プレーする”ことをやめなかった。一度は目を背けかけたから。今度こそは、最後まで。⋯⋯って思ってたんだ」


 見ていた。知っている。
 
 ここは青道高校なのだ。生半可な気持ちでやり切れるような練習ではない。冬の地獄の合宿だって、全員で乗り切ったではないか。そんな練習をこなしながら、何度も共に球場に足を運び、クリス先輩から受け継いだ偵察技術に磨きをかけ、夜遅くまでビデオを観てデータを整理した。
 
 渡辺先輩の覚悟はわたしにも、部員にも、監督たちにも。しっかりと伝わっている。


「今は“分かっていたこと”を、受け入れてる最中なんだと思う。現実なのに現実じゃないみたいで、変な感じ。⋯⋯でも青道の夏はこれからだし、僕の夏もこれからだ。だから⋯⋯ああ、そうだな、僕はこれを言いたかったんだと思う」
「?」
「今日で気持ちの整理をつけるから。監督にもあんな言葉を貰っちゃったし⋯⋯だからまた一緒にデータ集めよう。本当の、最後まで」
「⋯⋯っ、はい」


 費やした年月。懸けたもの。犠牲にしたもの。それらが否定されたわけではない。自身の中でも、そしてレギュラーに選ばれた選手の中でも、この先の確かな礎となって根付くのだ。

 ただその心境を思うと、今はまだ、あまりにも辛い。
 
 わたしが泣いてはいけない。何故お前が泣くんだと、そう言われたって──否、先輩は絶対に言わないけれど──おかしくない場面なのだ。

 しかし、意に反し涙は溢れていく。

 それを見た渡辺先輩が、フ、と息を漏らす。軽く笑ったような音だった。
 
 
「⋯⋯苗字ってほんと涙脆いよね」
「⋯⋯え?」
「こういう時は勿論だけど⋯⋯ビデオ見返しててもさ、不調続きだった選手が凄くいいプレーしたところとかでも泣いたりするじゃん。それまで悩んで頑張ってた日々を思い返して」
「それは、その⋯⋯決してわざとではなく⋯⋯」
「ハハ、分かってるよ。うーんそうだね、感受性が豊かと言うか優しいと言うか、まぁ全部ひっくるめて涙脆いとしか⋯⋯」
「ご、ごめんなさい、ナベちゃん先輩にはいつもご迷惑を⋯⋯」


 ううんと首を振り笑う先輩は、この場所に来たときよりも心持ち晴れやかな顔をしている。ように見える。

 
「でも、僕が泣かせちゃったのはこれが最初なんだよね。苗字なら共感してくれて絶対泣いちゃうだろうなって分かってたのに、話したい気持ちが勝っちゃった。ごめんね。⋯⋯さすがに御幸に怒られちゃうかな」
「ふふ、まさか」


 一也くんが──というか部員の誰かが──渡辺先輩に怒るところを想像してみようと努める。しかし一場面も想像できなくて、笑ってしまう。

 それから程なくして、ふと会話が途切れて。誰もいないグラウンドの静寂がやけに冴える。


「⋯⋯静かだね」
「はい」 
「僕も⋯⋯もう少しだけグラウンド見ていこうかな」
「⋯⋯はい」


 それきり会話は生まれず、ただ二人で、グラウンドを見つめた。
 
 


 
 素振りのために持ってきたバットを肩に乗せ、ベンチに座る名前の背中を見ていた時だった。

 背後から、「御幸」と声。
 声だけで誰なのかはすぐに分かったが、振り返ってその姿を認めてから「⋯⋯ナベ」と口にした。

 
「もしかしてこれから苗字と何か予定あった?」
「いや、何も。たまたま見かけたから少し眺めてただけ。アイツ、何かあるといつもあーやって⋯⋯」


 ──グラウンド見てるんだぜ。

 言い掛けた言葉を──手遅れ感は否めないが──飲み込む。ナベが相手だと不思議と口が滑る。「眺めてただけ」も「何かあるといつもあーやって」も、どちらも不用意な言葉だった。

 前者はただの惚気だし、後者は“レギュラー発表”の事に俺自ら触れてしまったと同義だ。故に気不味い心地でナベを見遣ると、何故かナベの方がよっぽど気不味そうな顔をして俺を見ていた。


「あの⋯⋯少しだけ、苗字のこと借りてもいい?」


 その言葉にぱちくりと瞬いてから、「は〜〜〜ぁ」と盛大に溜め息をついてみせる。

 
「⋯⋯ナベはさぁ、律儀過ぎんだよ。つーかナベにそんな許可取られると、普段の俺の態度がやばいって言われてるみたいでへこむんだけど」
 
 
 部員と話すことにすら許可を得なければいけない彼氏って。どんなだよ。超ヤベー奴じゃん。

 まあナベが言いたいのはそういう事ではないのだろうけど、とにかく見縊らないでもらいたいものだ。ナベのことも、他の部員のことも。俺はこれでも信頼している。

 そんな気持ちを込めて先程の言葉を口にすると、ナベは明るく笑ってから「少し話すだけだから」と言って名前の方へと足を向けた。心なしか赤く見える双眸をしたナベを三歩分だけ見送って、俺はその場をそっと離れる。

 辛いことがあった時、名前と話したくなる気持ちは俺にも分かるのだ。今回のことは特に、選手ではない人間に話せるというのも大きいのかもしれない。

 加えてナベは昨年に色々と悩んでいた経緯があるし、偵察等で名前と一緒に過ごした時間も長い。そういえばセンバツで真田と名前との間に起きた出来事を俺に教えてくれたのもナベだった。

 キャプテンとして。四番として。同じ汗を流し苦楽を共にした仲間として。選ばれなかったこいつらの分まで。
 
 
「⋯⋯俺らが連れてくからな」


 ぽつりと呟いた言葉が夜風に流される。グリップを握る右手に、きつく力を込めた。

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