22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 夏合宿が始まった。俺たち三年生にとっては最後の合宿だ。一年生の頃はついていくのに必死だった夏合宿も、三年生となった今では練習後に自主練に打ち込む元気が余っている。

 自分の手のひらを見つめ、ふと思う。

 あの頃描いていた自分に、その未来に。今の俺は立てているのだろうかと。
 
 普段は毎日に懸命で、未来に懸命で、過去の自分から見た現在の自分を考えることはない。どうだろう。どうだろうか。自分が追い求めていた自分は、どんなかたちをしていただろう。

 そんなことを考えていると、突然目の前で坊主頭が下がり「負けました」と野太い声。広げていた手のひらから視線をずらすと、将棋盤の上に駒が並んでいた。そういえば自主練後に皆で沢村の部屋に集まり、その際結城に将棋の勝負を挑まれ指していたんだったか。

 ぼーっとしてしまっていたが、投了した結城を見るにどうやら俺は勝ったらしい。曖昧に返事をし駒を片付けようと手を伸ばすと、結城がふむ⋯⋯と呟く。
 
 
「やはり兄の言っていた通りの腕前⋯⋯」
「いや、そんなことはねぇんだけど、マジで」


 結城の言い分にたじろぐ。本当に大それたものではないのだ。哲さんは、疑うことを知らなさそうなこの弟に一体何を話していたのか。やめてほしい。

 ふう、と息を吐き室内を見回す。 
 今日は一年生にも声を掛けていたから人数が多い。狭いこの部屋に少なくとも十五人──しかも男ばかり──が詰まっている。長時間この状況はやっていられない。人口密度が高いためか心なしか空気も薄いし。一年生とのコミュニケーションもまぁ取れたし、そろそろ潮時だな、と腰を上げる。

 
「御幸先輩。是非もう一戦」
「遠慮しとく。俺はちょい野暮用思い出したから、他のヤツに相手してもらえ」


 適当なことを言い残し部屋を出る。
 生温い夜風が頬を撫で、室内に比し濃い空気が肺に満ちる。美味い。ポケットに両手を突っ込んだまま軒下から一歩出て、肺に行き渡っていた空気を胸深くから吹き上げる。

 それを追うようにして仰いだ空。夜に浸かった空の中、満月になりきれていない月がぽつんと浮いている。そう思ってから頭を振る。いや、違うな。数日前に満月を見たから、“なりきれていない”ではなく“欠け始めた”が正しい。

 そして思う。いつの間にか俺も、無意識に空見てんのかもな、と。名前の傍にいるからか、気付けば視線を上に向けていることが増えた。その先にはいつでも須らく空が広がっていて、例えどんなに気が張り詰めていようとも、不思議と心がふわりと軽やぐ。
 
 そういえば去年の夏合宿でも、こうして空を見上げた気がする。

 そうだ。去年の今頃名前はまだ実家から通っていて、合宿は相変わらずキツくて、なのに毎日のように先輩たちが俺の部屋に集まっては騒がしくて、逃げるようにゾノの部屋に向かった、その途中。こうして夜空の下、柵に凭れ脇にマイ枕を挟んで。

 ──名前の声を欲していた。

 電話越しに聞いていた名前の声が蘇る。随分と懐しい。名前が青道に入学してからめっきりと減った電話は、名前が寮に生活拠点を移したことでより一層減っていた。

 それは一緒にいられる時間が増えたからなのだが、思い出してしまうと、どうにも懐旧の情が引かない。ついさっきまで一緒に野球をしていたというのに、もう名前が足りない。我ながら笑ってしまう。
 
 しかしそれでも、気付けばポケットから携帯を取り出していた。


 
 
 
「はーい、もしもーし」
「ああ、俺」
「ふふ、うん、一也くん」


 いつもと同じ調子の名前の声に、胸の奥から溜め息にも似た吐息が落ちる。沢村の部屋のドアの向こうから聞こえてくる不特定多数の騒がしい声が、意識の外へと消えていく。
 
 
「今何してた?」
「お風呂入って、もう寝る支度も終わったところ。なんか眠くて」


 困ったように笑う名前の言葉に、そんなの当たり前だろ、と思う。
 
 毎日暑さと闘いながら練習のサポートをしてくれ、重たい荷物を運び、大量のおにぎりを握り、汗と土に汚れた物を綺麗にし、自分たちの泣き言はひとつも口にせずに選手に明るく声を掛け続けてくれる。加えて日中は授業があり休まることもない。

 これで疲れない方がどうかしている。眠いのなんて、当然だ。
 
 
「悪りぃな、すぐ切るから」
「ううん。声聞けるの嬉しい」


 くすぐったそうに笑った声に、思い出す。正月に名前の実家の部屋で聞いた言葉。

 ──“電話してる間だけは、世界中に一也くんとわたしだけみたいだから。かな? 独り占めっていうか、なんか特別みたいでしょ”

 もしかすると俺も、似たような心境なのかもしれない。今だけは。名前の声を聞いているのは、俺だけなのだ。

 
「一也くんたちはまた皆で集まってるの?」
「うん。今日は結城に将棋挑まれてさぁ、哲さんマジで何吹き込んでんだよって感じ」
「あははっ、目隠し将棋じゃなかった?」

 
 どうしたの、とか。何か用、とか。電話の理由を聞かれなくてよかった。何も用事はないのだ。

 ただ、名前の声を聞きたかっただけなのだから。

 
「一也くん、今外にいるの?」
「ん、なんで分かった?」
「少しだけ風の音がしたから。⋯⋯ね、月が綺麗だね。少し欠けてきちゃったけど」
「⋯⋯ああ、そうだな」
「ふふ、夏目漱石だよ?」
「わーってるよ。だから『そうだな』っつったんだろ、これ以上の叙情的な返し期待すんな」


 あまりにも有名な「月が綺麗ですね」をこんな場面で使われ、些かむすりと口を結んでから、もう一度月を見上げて思う。今日の月を見て“欠けてきちゃった”と表現するあたり、名前が日頃空を見ていることの証拠だよなぁと。 

 恐らくまた窓際にでもいるのだろう。もう寝るところだと言っていたから、部屋の明かりも落としているのかもしれない。

 
「お前はほんと、空見んの好きだな」


 名前の口から情景が語られると、例えそれがただ一言「きれい」という音だけでも、応えるように世界がまばゆく強くなる。その世界の中で存分に野球をしていられることが、誇らしい。

 ポケットに入れたままの片手を、無意識にきつく握っていた。
 
 もう少しで、俺の最後の夏が来る。例えどんな結果になろうとも、夏は必ず終わり、そして引退を迎える日が来る。名前と野球をしている日々が終わる日が来る。

 けれど、その瞳でいつまでも。

 ──俺を映しててくれ。
 

「⋯⋯名前」
「ん?」
「行こうな、甲子園」
「──うん」


 名前の声を閉じ込めるように、束の間瞼を閉ざす。夜に漂う意識の中に名前の声だけが木霊して、酷く心地よい。今日はぐっすりと眠れる気がした。

Contents Top