22.こっちとそっちの真ん中なんだ



 夏合宿が終わると同時に、毎年恒例テスト週間へと突入する。この時ばかりはどんなに野球馬鹿なわたしたちも、普段よりは少しだけ野球のことを忘れ、勉学に没頭する時間を作る。

 だというのに、わたしはノートでも教科書でもなく、スコアブックを抱えて一年生の廊下を歩いていた。お届け先に当たる人物は杏奈ちゃんと同じA組だという。慣れぬ廊下を端まで歩き、今一度この教室がA組であることを確認してから、入り口にいた女子生徒二人組に声をかけてみる。


「あの⋯⋯野球部の奥村くんいるかな?」
「奥村くんですか? 休み時間はいつもあそこの自分の席に⋯⋯って、それ! そのノート! 魔術書もしくは暗号だらけの国家機密の!」
「え?」


 腕に抱えていたスコアブックを興奮気味に指され、たじりと一歩ぶん身を引く。魔術書? 国家機密? 何を言っているんだこの子たちは。

 訳がわからず首を傾げると、彼女たちは今しがた開いたばかりの一歩分の距離を詰めながら「私たちずっと不思議に思ってて!」と身を乗り出してくる。

 まずはその大したコミュ力に感服の意を表したいと思う。
 
 
「そのノートも気になるんですけど、それよりも奥村くんって部活中もあんな感じなんですか? 異世界に飛んで戦ってたり?」
「はい???」


 素っ頓狂な声が出る。
 異世界? 何それどこ?

 彼の普段の様子があまりにも想像できず、わたしは一度考えることを放棄した。その代わり、気になった言葉を問い返す。


「戦う⋯⋯って、奥村くん、教室でも誰かと喧嘩してるの?」
「喧嘩⋯⋯? いえ、ずっと一人であんな感じです。そのノートをずーーーっと読んでたり、じーーーっと一点を見つめたまま動かなかったり、かと思えば突然くうを掴んだり⋯⋯こうやって⋯⋯」


 彼女たちが律儀にその場面を再現してくれる。
 スッと真っ直ぐに腕が伸ばされて。何もない空間に僅か留まってから、何も存在しないはずの空気を確かに握るのだという。ぎゅっと。力強く。


「あはっ、何してるの奥村くん、変なの」


 彼女たちの手前そう笑ってから、考える。周囲の目など微塵も気にせず、その手に何かを掴もうとした奥村くんのことを。

 彼は一体、──何を掴んだのだろう。

 きゃっきゃと笑う彼女たちにお礼を言い、教室に踏み入る。じいっと机の上に視線を落としている奥村くんの隣に立つ。しかし何事かを考え耽っているのか、まったく気付いてもらえない。ので、声をかける。
 
 
「はい、奥村くん。週末の試合の分のスコアブック」


 視界に急に物体が入ってきたことに驚いたのだろうか。奥村くんは僅かにびくりと肩を跳ねさせて、わたしを見上げた。
 

「⋯⋯どうして先輩がここに?」
「奥村くんがこれ見たがってたから届けてやってくれって、一也くんが。ちなみに今は主将会議に行ってるよ」
「⋯⋯」


 またあの人ですか。
 そう言いたげな瞳を向けて、彼はスコアブックを受け取る。二秒ほど表紙を見つめてから、ちいさく頭を下げる。
 
 
「⋯⋯わざわざありがとうございます。すみません気付かなくて」
「ううん、面白い話聞けたし楽しかったよ」
「?」
「ふふ」


 三ヶ月近くを一緒に過ごしていると、わたしにも随分と彼の感情がわかるようになってきた。表情は殆ど変わらないけれど、目周りの雰囲気が変わるのだ。ちなみに今の彼の目を訳すと「⋯⋯? 何のことですか?」となる。

 なんだか不器用な子だよなぁと笑ってから、「それはそうと」と切り出す。


「もうすぐテストなんだから、スコアブックばっかり見てないでちゃんとお勉強するんだよ。追試になったら面倒だし⋯⋯って聞いてないや」


 既にスコアブックを開き試合の流れを追い始めている彼の旋毛に、独り言となってしまったわたしの声がかかる。
 
 凄い集中力だ。こうして周りの目を気にせず野球にのめり込む──のめり込めてしまう──がゆえ、級友からは好奇の目で見られてしまうのかもしれない。

 この分だと授業中にも内職してそうだなと思い、一応お小言を付け加える。
 

「わかってると思うけど、授業中に見る時はこっそりね、こっそりだよ。バレたら監督の耳にも入っちゃうかもしれないし。⋯⋯じゃあ、また部活でね」


 これまた独り言になってしまったけれど、何も言わないよりかはまぁいいだろう。

 身軽になった身体でもと来た道を戻る。
 不意に、授業中の眠気と必死に戦いながら「今年のテストは苗字たちの力は借りねぇで自力で乗り切ってみせるぜ!」と声高々に張り切っている沢村くんの顔が浮かぶ。そして沢村くんに引っ張られるように頑張っている降谷くんの顔も。

 眠気に抗う両名の授業中の様子──降谷くんはともかく沢村くんの顔芸は素晴らしいものがある──を思い出し、つい笑みが落ちる。あの顔、授業中じゃなかったら写真撮りたいくらいなんだけどな。

 しかし裏を返せばそれだけ懸命に授業に取り組んでいるということだ。青道を支える投手として、青道の主力として、恥じないように。

 一年前とはまるで異なる彼らのその気概に、一言。


「奥村くん⋯⋯案外追試になりそう⋯⋯」


 その独白は、名も知らぬ下級生たちの笑い声に紛れた。

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