22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 シャキ、という軽快な音の直後。フェルト地がはらりと机に落ちる。
 
 
「こっち全部切れましたー! ユニフォームのほう」
「ありがと。こっちもボールの終わったよ」
「オッケー。じゃあそれぞれ縫っていこうか」
「はーい」


 針山に刺しておいた針を取る。夏大に向け、マネージャー陣でお守り作りをしているのだ。今年はフェルトで小さなユニフォームを作り、それぞれの背番号を付け、さらに小さなボールを装飾する。

 ぷつり。粗いフェルト地を針が縫い進んでいく。出来るだけ等間隔で。同じ長さで。真っ直ぐに。ひと針ひと針丁寧に通していく。

 そうするうち、目の前に座っていた一年生の二人が「わーん」と声を出す。


「全然上手にできなーい!」
「む、むず⋯⋯」


 眉を寄せながら懸命に針を持つその姿が、一年前の自分に重なる。


「ふふ、大丈夫大丈夫。わたしも去年は同じだったよ」
「えー、ほんとですか? 一年経ったらそんなに上手になるんですか?!」


 この問いかけには幸子先輩が答えた。

 
「あー、うーん、名前は超練習してたからなー」
「うわ! なんで知ってるんですか?!」
「春乃から聞いてたよ。休み時間とか昼休みとか、空き時間でずっと練習してたって」


 にししと笑われ、わたしは思わず顔を覆った。こっそりやっていたと思っていたことが、実は筒抜けだったなんて。完全に教室でやっていた自分のせいなのだけれど、ちょっと、いや結構恥ずかしい。

 その様子を見た春乃ちゃんが、慌てたように口を開く。

 
「ご、ごめんね名前ちゃん、一生懸命なのが可愛くて幸先輩たちにも知ってもらいたくて⋯⋯嫌だったかな」
「あ、ううん、全然! ちょっと照れくさかっただけ」


 顔を覆っていた手を左右に振り、笑ってみせる。「よかった〜〜」と胸を撫で下ろしている春乃ちゃんに、わたしも同じく胸を撫で下ろす。こんなことで負い目を感じさせてしまうところだった。
 
 すると、この会話を聞いていた茜ちゃんがちいさく首を傾げながら問うてきた。


「どうしてですか?」
「ん?」
「どうしてそんなに練習できたんですか? 名前先輩、他にもたくさんやることあっていつも忙しそうなのに⋯⋯」


 ──どうして、か。

 その答えを自分の中に探して、ひとつ。そしてふたつ。瞬きをする。それからゆっくりと唇を開いた。
 

「⋯⋯最後、だから」
「さいご?」
「あの、ごめんなさい、惚気ます。⋯⋯その、一也くんの背番号縫ったりできるの、今年が最後だから。綺麗に付けれるようになりたくて⋯⋯」


 話している途中でどうにも気恥ずかしくなり、後半は消え入りそうな声で呟く。何を言っているんだろう、わたしは。もっと適当に答えることだってできたはずなのに、何を馬鹿正直に。

 さすがに本心を曝け出し過ぎてしまっただろうか。不安に思いながら皆の顔色を窺う。すると幸子先輩がぺちんと自身の額を叩いた。


「っか〜〜〜これだから! あいつは羨ましいんだっつの!!!」
「さ、幸先輩がおじさんみたいに⋯⋯」
「ほら名前! 二番のやつ縫いな! どーせ御幸は二番貰うんだろうから!」
「え⋯⋯そんな⋯⋯いいんですか?」
「はぁ?! あっっったりまえじゃん!」


 机に両手をばしりと叩きつけるような──いや、実際にがたりと机が揺れた──勢いで言われ、思わず「わぁ」と身を竦める。

 
「当たり前過ぎて怒っちゃったよ! 変なことつべこべ言わずにさっさと縫う!」
「⋯⋯ふっ、ふふ、嬉しいです、ありがとうございます」


 できるだけ丁寧な口調で礼を伝えてから、“2”のかたちに切り取られたフェルトを掬い上げる。自然と宝物に触れるような手つきになってしまった。この番号のお守りを作れるのだ。嬉しい。頬がほんのりと熱を持つ。

 そうして数秒だけ嬉しさを噛み締めていると、目の前に手を翳した一年生二人が目を細める。
 

「な、何か眩しい⋯⋯! その2番のフェルトさえ羨ましい⋯⋯!」
「私わかっちゃいました、さっき幸子先輩が御幸先輩のこと羨ましいって言った気持ち⋯⋯」
「わかる?! でしょ?! 名前にこんな目で見つめてもらえるとか、マジであいつなー!」
「ちょっ、うわ、わたしそんな顔してましたか?! ごめんなさい、恥ずかしい〜〜!」

 
 きゃいきゃいとはしゃぎながら、穏やかな時間が流れゆく。ずっと続きそうなのに、このメンバーで過ごすのもあと僅かなのか。そう思うと、転がるような笑い声のひとつさえも愛おしく思えて、そっと胸に閉じ込めた。







「お。やっぱ今年もここにいた」
「あれ、一也くん」
「よ」


 軽く片手を上げ、土手の階段を上ってくる彼を最上段から見下ろす。片側から夕陽を受けるその姿が、何だかきらきらとまばゆく見える。

 胸の中の、先程監督から手渡されたユニフォームをきゅっと握る。選手たちに背番号を配り終えた後、昨年同様わたしたちマネージャーにも手渡してくれたユニフォームだ。


「また幸せを噛み締め中ってやつ?」
「ふふ、そう」

 
 てっぺんまで上りきった彼が、隣に腰を下ろす。手には彼のユニフォームと背番号が握られている。「背番号。今年も頼むぜ」と彼はそれを差し出した。

 
「──うん」


 そっと手を伸ばし、受け取る。背番号は二。今年もこの番号を縫わせてくれるんだな。そう思うと、去年の事が自然と思い起こされた。


「懐かしいね。あれからもう一年も経つんだ」
「ああ」
「覚えてる? わたしここで言っちゃったんだよね、一也くんのことが好きだって」
「⋯⋯ああ」
「あの時は感情が抑えられなくてどうすることもできなくて⋯⋯今こうして隣にいられる関係でほんとによかった」
「名前⋯⋯」


 ふわり。夕陽が照らす空気がそよぐ。心地よい。その心地よさに、束の間目蓋を閉ざす。
 
 去年ここで見た景色が眼裏に浮かぶ。今でもはっきりと覚えている。夕陽に沈んだ手元。短くなっていく糸。夕空の反射した彼の瞳。届かないと思っていた恋心。

 すべてが嘘のように眩しかった。
 
 
「嬉しそーだな」
「うん。すっごく。一也くんに好きになってもらえるなんて、今でも夢みたいって思うことあるよ。⋯⋯それに、また背番号縫わせてくれる日が来ても困らないように、一年間お裁縫の練習したんだもん。披露できるのも嬉しい」
「はぁ、練習? お前も忙しいのに何してんだよ」
「綺麗につけたかったの。最後の夏、一也くんの背中を守ってくれる背番号」


 膝の上に乗せた背番号を見下ろす。いつも彼の背中にあるせいで、酷く愛着を感じる。愛おしいとすら思う。

 
「なんか⋯⋯すっげー念込められてそう」
「ふふ。もし東京選抜の時の乾さんみたく背後からバットが襲ってきても、わたしの込めた覇気が一回くらいなら弾くから。安心してね」
「はは、マジかよ」


 ぷくくと笑っている彼の横顔を見て思い出す。去年の秋。脇腹の肉離れを起こした時のこと。あの時の底知れぬ不安と焦燥。彼が野球と生きる未来が潰えてしまうかもしれない。そんな恐怖。あんな気持ちは一度だけでいい。もう二度と、あんなもの。だから。
 
 一也くんを守ってくれるのなら、何だってする。

 ふと気付く。両手に異様な力が入ってしまっている。見ると、背番号をきつく握ってしまっていた。慌てて離す。真新しい背番号に刻んでしまっていた皺は、幸いなことに残らずに済んだ。

 脇に置いていたソーイングセットを開く。

  
「⋯⋯って持ってきてんのかよ、裁縫道具」
「何を隠そう、いつ頼まれてもいいように今日はずっと持ち歩いてたからね。もし頼んでもらえなかったら、わたしから『背番号付けさせて!!!』って乗り込もうと思ってたの」
「⋯⋯お前以外誰に付けさすんだよ」


 呆れたようにくしゃりと撫でてくれるおおきな手。その感触に束の間浸ってから、彼を見遣る。この場所から移動する素振りは、ない、かな。

 
「わたしここで縫うけど⋯⋯いてくれるの?」
「うん」


 ころりと寝転がった彼は、頭の後ろに両腕を敷いて空を仰いだ。今日はまだスポサンを掛けている彼の目元に広く、去年とは違う空が映り込む。

 美しい。夕空だ。

 世界が織りなす色彩が、想い人の目元、この手で触れられる距離にあることが夢のように思えた。

 半ば覆い被さるようにして、そっと彼を覗き込む。夕陽がわたしの頭部に遮られ、彼の顔が翳る。頬に片手を沿え、やわりと力を入れ包み込む。


「一也くん」
「⋯⋯ん?」
「あの頃⋯⋯去年の今頃のわたしはね、これ以上一也くんを好きになんてなれないと思ってた。好きで、好きで⋯⋯苦しかった。でも今はあの頃よりずっと好き。きっとこの想いの行き着く先に際限なんて存在しないんだなって」


 彼の頬の上で指先に僅かに力を入れる。指先で抱きしめた頬からはふにりとした弾力が返ってくる。鍛えられた筋肉に覆われた彼の、数少ないやわらかい部分に触れている気がして、目を細める。
  

「最後の夏、ここにいさせてくれてありがとう」


 ふいに風が吹く。耳に掛けていた髪が落ちる。そのひと房を彼が手に取ったのを合図に。

 彼の額にキスを落とした。

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