22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 夏大が始まった。

 “三年生にとっての最後の夏”という現実は、初めてその背にエースナンバーを背負った沢村くんに、当初重圧としてのしかかった。

 先輩たちの夏を終わらせられない。二度はない。負けられない。勝たなければ。俺が。エースとして。

 その気持ちばかりが空回ってしまい、初戦の由良総合戦では本来の投球をすることができず、四回で降板。川上先輩への継投となった。そこから打線も繋がり、結果的にはコールド勝ちで試合を終えた。

 しかしその日の夜。一也くんは、怖いくらいの強さを湛えたその瞳でグラウンドを映しながら、とても勝者とは思えぬ表情でぽつぽつと思いを吐露した。
 

「俺はさ、名前」
「うん」
「もっとアイツの力になってやりたかったよ。チームの想いを背負い過ぎたアイツの」
「⋯⋯うん」
「悔しいわ。もっと掛ける言葉あっただろくっそ⋯⋯」


 沢村くんの悔しさ。それは、一也くんの悔しさでもあるのだ。一心同体となって試合に望む彼らの姿が、大好きだ。
 
 わたしはただ、彼らに寄り添い、サポートすることしかできない。それでもこうして“何か”を吐き出す場所になれるのなら、それは酷く光栄なことだ。

 空を仰ぐ。ぱらぱらと散る星と所々浮かぶ雲に、空の濃淡が深く、そして淡く変化する。

 数日前に背番号を縫ったこの場所で、試合後の夜はこうして肩を並べ、その日を振り返る彼の話に耳を傾ける。それが、夏大期間中の日課となった。







 続く八弥王子戦──東京選抜にも選ばれていた川端さんを筆頭とするその守備には、敵ながら舌を巻いた──でも勝利を収め、五回戦の対法兼学園戦の前日、薬師対市大三高戦を偵察に来ていた時のことだ。


「よお、名前!」
「うわ、真田さん!」


 ちょうどアップをしていたらしい薬師に遭遇してしまい、しかも真田さんに見つかってしまう。


「うわって言うなよ」
「だって⋯⋯どうしていつもいつもそんな普通に話しかけれるんですか⋯⋯?」
「? 何で。普通じゃいけねぇの?」
「な、なんでって⋯⋯」


 センバツの時無理やりキスしようとしたの忘れてませんからね! などとこんな公の場で言うわけにもいかず、むぐうと口を噤む。
 
 本当にこの人は、どんな出来事があった後にも、あたかも何事もなかったかのようにけろっと話しかけてくる。


「いえ、どうせわたしが考え過ぎなんです⋯⋯」
「ははっ、違いねぇ」


 とても三高戦直前とは思えぬリラックスした雰囲気で、彼は肩を揺らす。
 

「お前俺らの次の試合観に来たの?」
「はい。ばっちりデータ取らせて──」


 ──もらいます。

 そう言葉を継ぐはずだったわたしの唇が、“て”のかたちのまま固まる。なぜなら誰かに手を引かれたからだ。後ろから。ぐいっと。

 振り返ると、一緒に来ていた奥村くんが、わたしの腕を掴んだままいつもの如く悪い目付きで立っていた。


「⋯⋯ついて来てないと思ったら、こんなところで何してるんですか」
「え⋯⋯それだけでわざわざ戻ってきてくれたの?」


 奥村くんがそんなことをするタイプにはとても思えず──「放っとけば戻ってくるでしょう」とか言いそう──、失礼ながらも目を丸くして問う。すると彼は眉一つ動かさずに答えた。

 
「すぐ迷子になると聞いたので。片時も目を離すなと」
「なっ、ならないよ! しかも球場で!」


 一体誰がそんなこと! 一也くん?!
 と今頃は学校で明日の試合に向け調整をしている彼を思い浮かべていると、真田さんが可笑しそうに唇の端を持ち上げる。
 
 
「へぇ、今日はそいつが名前の親衛隊?」
「は、はい?」
「見たとこ一年か⋯⋯御幸に頼まれたのか? コイツのこと見ててくれって? ああ、まぁ、俺と会うかもしんねぇからって意味もあんのか⋯⋯くくっ、御幸ってほんと、予想に反して過保護っつーかゾッコンっつーか」
「な、なんで一也くんが出てくるんですか⋯⋯それに親衛隊でも何でもなくて、一緒に観戦に来てた後輩です。失礼なこと言わないでください」
「ハハ」


 慌てて奥村くんを背に隠すようにして立つ。まあ背丈的に彼すべてを隠すことはできないのだけれど、そのはみ出た部分をフル活用して、彼は真田さんを威嚇している。

 我が後輩ながら大した度胸である。


「うぉ、グルグル言ってやがる。親衛隊っつーより野生上がりの護衛犬? 頼むから噛み付いてくれるなよ」


 その言葉に“狼だったり犬だったり大変だなぁ”と思わず笑ってしまう。しかし身体を出し横に並んだ奥村くんにキッと睨まれ、苦笑いで肩を竦める。まさか心の声が聞こえたわけでもあるまいに。恐ろしい子だ。

 そのままわたしを睨み、彼は続ける。


「⋯⋯早く行きましょう。渡辺先輩たちも待ってます」
「あっ、うん。じゃあ真田さん、頑張ってください」
「おう。そーやってエール送っちゃうあたり素直でほんと良いと思うぜ」
「なっ⋯⋯知りません⋯⋯!」


 またこの人はこうやって。すぐ揶揄ってくる。絶対に楽しんでいる。わたしと、そしてその向こうの一也くんの反応を。

 やはり悔しい。今日も今日とて悔しい。

 そんな制御できない気持ちでぷりぷりと奥村くんを追う。追うのだけれど、その歩みのまあ速いこと。競歩かと錯覚するレベルで速い。わたしなんて小走りでなければ到底追いつけない。

 望みは薄いと思いながらも、「奥村くん、ね、どうしたの」と声をかけてはみる。しかしやはり彼は、どんどこすたすたと進んで行ってしまう。

 
「待って、ちょっと速い⋯⋯っ」


 怒っているのだろうか。わたしが“大変だなぁ”と他人事のように笑ったから? それともわざわざ迎えに来させるなんて手間をかけてしまったから?

 様々理由を考え、ふと思う。

 ──奥村くんって、なんだか面倒くさい彼女みたい。
 
 その瞬間、彼が階段の手前で足を止め、隠す気のない溜め息をつく。まさかまた心の声が聞こえてしまったのだろうかと、咄嗟に身構える。さすがに「面倒くさい彼女」呼ばわりは怒られる。

 あの春の、決して良いとは言えない邂逅以来、三ヶ月かけて随分と修復関係を築いてこれたと思っていた。けれど崩れるときは一瞬で、呆気ない。


「⋯⋯今朝出発前にあの人に言われたことが良く分かりました」
「な、何を言われたんでしょう⋯⋯」


 一体何を吹き込まれているのかと、恐る恐る見上げる。けれど速攻で「というか」と話題を変えられてしまう。

 これは、──全然答える気がない。
 あまりにも拒否の意思がはっきりとしていて、むしろ後腐れなく彼からの返答を諦められるというものだ。

 
「というか。ほんの一瞬目離した隙にいなくなってるとか⋯⋯子供ですか」
「いなくなったんじゃなくて立ち止まっただけだもん⋯⋯」
「⋯⋯まぁいいです。ほらさっさと上ってください」
「もう上ってるもん!」


 スタンドまで続く階段に、犬も食わない言い合いと、アンバランスな靴音が小さく響いた。

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