22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 薬師対市大三高戦は、まさに激戦だった。

 天久さんの新球──これを奥村くんはツーシームジャイロのようだと言った──も披露され、市大三高リードで進んだ試合。薬師も怒涛の追撃を見せ八回表で同点に追いつくも、九回裏、ツーアウトランナーなしまで追い込んだところでしかし、市大三高に意地のサヨナラタイムリーを打たれる。斯くしてここで。

 薬師がこの夏、──姿を消した。

 試合後、皆で球場を出たところでわたしは「あ!」と声を上げ足を止めた。隣を歩いていた渡辺先輩が首を傾げる。


「? どうかした?」
「スタンドのベンチの下にノート忘れてきちゃいました! リュックの中身整理してたときに置いたまんまで⋯⋯大変、我が校の機密情報が⋯⋯急いで取りに行ってきます! 駅までには追い付くので先行っててくださーい!」


 そう言い残し、踵を返して走り出す。
 球場というものはどうしたって広いものであるから、それなりの長距離走となることを覚悟した。
 
 ちなみに余談なのだけれど、この数十秒後、「苗字先輩の姿が見えませんが」とわたしの不在に気が付いた奥村くん──十メートルほど先を歩き、高島先生と何かを話していた──に、のちに「すぐ居なくなるのやめて貰っていいですか、本当に」と怒られ、且つ一也くんにチクられることになるとは夢にも思わない。春はあんなにガルガルしていたのに、いつの間にか一也くんの諜報員のようになっているではないか。一体なにゆえ。この数ヶ月の間、青道で過ごして彼にどんな変化があったのだろう。

 閑話休題。

 とにかくそうしてスタンドへと戻り、ノートの無事を確認し、さぁ復路も走るぞ、と気合を入れ球場の廊下を走っていた、その時だった。

 突然目の前に出現した大きな人影を避けることができず、ぼふっという鈍い音とともにぶつかる。
 

「っ! ごめんなさい!」
「⋯⋯ああ、名前か」
「あ⋯⋯真田、さん」


 男子トイレから出てきたその姿を、複雑な面持ちで見上げる。いつもなら、何だかんだと会話が続いていくのだけれど、たった今の激闘結果を思うと言葉が出てこない。
 
 対して真田さんは、のろりと視線を動かしてわたしの双眸を捉えた。その目が、少しばかり赤い気がして。咄嗟に目を逸してしまう。

 敗北が決まったあの瞬間から、グラウンドを出るその時まで。真田さんは、泣いているようには見えなかった。しかしこの、憔悴した表情。

 皆には、見せまいとしていたのだろうか。

 喉の奥がつんと痛み始めてしまい、慌てて俯く。共感し過ぎだ。同調し過ぎている。きっと、良くない。だって明日には試合が控えている。勝てば市大三高、そして稲実。気持ちを落としている場合ではないのだから。

 そう考えていた、その時だった。
 
 真田さんの指が、徐に伸びてきて。わたしの髪をひと束掬い上げる。髪はそのまま指先を滑り、音もなくはらりと落ちる。
 
 
「⋯⋯真田さん?」
「頑張れよ。⋯⋯じゃあな」
 

 ぽつりと呟き、踵を返したその背中。
 初めて見る。俯いているわけではないのに、こんなにも力のない背中は。普段の彼も、マウンド上の彼も、その背にはいつだって堂々たる自信が背負わさっていた。

 それなのに。
 
 声をかけられなかった。お疲れ様でした。いい試合でした。なんて。そんな言葉で埋められる心なら、とっくにそうしている。

 これが、夏の終わり。

 その事実を胸に刻み、彼の背に向かってちいさく頭を下げる。それでも、お疲れ様でした、と。







「おー、おかえり。三高勝ったって?」
「ただいまー。うん、いい試合だった」


 青道に戻り食堂に向かうと、既に幾人かが集まっていた。一也くんが声をかけてくれる。
 
 
「? 浮かねぇ顔だな」
「⋯⋯わたし? そう?」
「そう。何、天久の球そんなやべぇの?」
「あ、それはやべぇです」
「はは、やべぇんだ」


 食堂の角に鎮座するテレビにビデオを繋ぎながら、少し迷う。猛烈に意識してしまった夏の終わりが、怖くなってしまったと。打ち明けるか否か。
 
 が、すぐにその考えを振り払う。
 すべてを懸けた戦いにこれから挑む人。余計なことに割くリソースなどありはしない。わたしの不安などどうでもいいのだ。

 その代わりに、ひとつだけ。胸のうちを曝してみる。
 

「⋯⋯わたしね、一也くん」
「うん」
「次の試合が終わったら、お兄ちゃんに会いたいの」
「決勝の前にってことか?」
「うん。稲実まで会いに行ってもいい⋯⋯かな? キャップ」
「兄妹が会うのに良いも悪いもあるかよ。行ってこい」


 隣に来ていた一也くんが、一瞬だけ目を細める。どこにも触れられてはいないのに、まるで頭を撫でて貰えたような心地になり、不意に涙が滲んでしまいそうになった。きっと一也くんは、何かを察してくれたのだろう。

 兄に、会いたかった。
 
 わたしたちがあとふたつ勝てば、決勝で恐らく稲実と当たる。成宮鳴と、御幸一也と。どちらかの夏が、確実に終わってしまうのだ。

 試合は楽しみだ。すごく。楽しみだけれど。同時にどうしようもなく怖いのだ。甲子園に懸ける二人の絶大な想いを、ずっと追いかけてきたのだから。

 二人の野球の永遠を、願っているのだから。

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