22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 準決勝。対市大三高戦。
 
 立ちはだかる天久さんの前に、青道はなかなか点を獲る事ができずにいた。得点圏に走者が出ることは幾度もあった。ここぞという場面で一也くんにも打順が回った。けれど、紙一重で悉く防がれてしまう。

 一点が、──酷く遠い。

 対する沢村くんも、大会中に自ら編み出したスプリット改を交え、一歩も引かぬ好投を見せる。四回表に一点を失う──エラー、そして送球の乱れが重なってしまった──も、彼の力投は、その成長のめざましさは、とても言葉にならないものだった。

 いつの間に沢村くんは。こんなエースになっていたのだろう。

 その姿に、皆が鼓舞される。何としてでも点を取る。エースに少しでも楽をさせたい。そんな焦燥と、滾る得点への執着心。それらの気持ちがスタンドにも痛いほど伝わってきた。

 粘って、粘って、溜めて、溜めて。そうして迎えた八回裏。白州先輩のヒットでついに同点に追いつく。青道側の大歓声の中、倉持先輩がホームベースを踏む。そしてその勢いのまま、青道が誇る脚力を存分に活かした跳躍を見せ、次の打席の準備をしていた一也くんに──抱き着いたのだ。

 その光景に、わたしはテンションが突き抜けてしまった。隣に座っていた春乃ちゃんをもみくちゃに抱きしめながら、ただ思ったままを口走る。


「きゃーー! は、春乃ちゃん! わたしも! わたしもあそこであれしたい!!! 行ってきていい?!?!」
「えっ?! 行くってどこに?!」
「あそこ! あんなふうに二人が抱きつくなんて!!」


 控え目に抱きしめ返してくれながら、春乃ちゃんは困惑しているようだった。「わ、私じゃ駄目かな? 抱きつくの」などと焦ったように言わせてしまう。「ううん! ありがとう!」と答えたわたしが春乃ちゃんを解放したのが実に試合終了後だったというから、アドレナリンとは怖いものだ。

 続いた一也くんの打席。結城先輩のヒッティングマーチだった“ルパン三世”が流れる中、バッターボックスに立つその姿を見つめる。

 何だか一也くんの周囲だけ、音がないみたいだ。時間が止まっているみたいだ。彼を見ていると、なぜだか胸の奥から震えが沸き起こり、それが身震いとして全身に伝播する。興奮しているのか。怖いのか。わからない。


「一也くん⋯⋯なんか⋯⋯急に遠い人みたいだね⋯⋯」
「え⋯⋯?」
「わたしたちの声、今はきっと、すごく遠いんだろうな⋯⋯」
「⋯⋯名前ちゃん?」
「打つよ、一也くん」


 力強く呟いた、その直後のことだ。
 一也くんのバットが空気を裂く。天久さんの球を捉える。皆の想いを乗せ空の中を走った白球は、歓声を置き去りにして──外野の頭を越えていった。

 ついに炸裂した主砲の一撃。勝ち越しの二点目。
 
 わたしは、涙が止まらなかった。次から次へと溢れるそれで、景色が歪んで仕方がない。抑えきれず漏れてしまった嗚咽に、前に座っていた渡辺先輩が振り返る。


「はは、苗字、また泣いてる」
「も⋯⋯こんなの⋯⋯無理です⋯⋯っ。それにナベちゃん先輩だって泣きそうです⋯⋯」
「はは、ね、参るよ本当に」


 スタンドの響動めき。グラウンドの熱。これが、すべてだった。皆で掴み獲った決死の追加点。それを最後まで守り抜き、わたしたちはついに──勝利を収めた。

 そして続いた第二試合、稲実対紅海大菅田戦ではエースを温存した稲実が九対二で勝利を掴む。

 斯くしてついに、決勝で、稲実と。相見えることが決まったのだ。






 
 夕焼けの色が地平線に僅かだけ残っている。校舎前の坂道を上りきり所在なくグラウンド脇に佇みながら、ぼんやりと橙に染まる空の端を眺める。来たはいいものの、これからどうしようか。そんなことを今更考え途方に暮れていた時だった。

 視界の外から、「あれ⋯⋯?」と声。訝しんだようなその声色に、恐る恐る振り返る。何の用で通り掛かったのか、そこでは、正捕手の多田野くんがきょとりとした眼差しでわたしを見つめていた。


「た、多田野くん⋯⋯」
「えっと⋯⋯青道の⋯⋯いや、鳴さんの⋯⋯」


 ──えっと、青道のマネージャー、いや、鳴さんの妹の。

 言いかけたどちらの単語も容易に想像ができた。その声に非難の色は微塵も感じられなくて、少しだけ、肩の力が抜ける。

 何はともあれ挨拶を、と頭を下げる。


「あの、兄がいつもお世話になってます」
「あ、いえ、こちらこそお世話になって⋯⋯あの、本当に」


 そう返す彼の眼差しに、ぽうっと強さが宿る。憧憬。尊敬。意地とプライド。あの雅さんの後を継ぎ、あの気難しい兄とバッテリーを組む人。そしてこの眼差し。ああ、そうか。多田野くんはきっと、成宮鳴という男に魅せられた捕手なのだ。わたしや沢村くんが、一也くんに魅せられたように。

 ひゅうと風が吹く。制服のスカートが、微かに揺れた。
 

「⋯⋯それであの、わたし、断じて偵察とかではなくて」


 ──お兄ちゃんに会いに来て。

 と本題を伝えかけた、その時だ。わたしの言葉の途中で、多田野くんが「鳴さん⋯⋯ですか?」と問うてくれる。その気配りに感謝しつつこくりと頷くと、彼はやっぱりと言いたげな様子でぱあっと顔を明るくした。


「呼んできます! 少し待っててくださいね」
 

 人当たりの良い笑みを見せる彼を見て、何とも絶妙に気不味い距離感だな、と思う。初対面というわけではないのに会話歴があるわけではなく、でも同い年だしなぁと普通に話してみれば、彼は敬語だし。彼も彼で困惑していることとは思うけれど──何せ決勝戦の相手であり、かつ相棒の妹が突然訪ねてきた場面に遭遇してしまったのだから──、何とも、絶妙なのである。

 素早く踵を返したその背中に、「ありがとう! でもお兄ちゃんの調整終わってからで大丈夫! です! 終わるまで待ってるから!」と投げかける。すると「いえ、何やっててもすっ飛んでくると思うので大丈夫です! むしろ待たせたら俺が怒られそう!」と返ってきて、笑ってしまった。

 どうやら兄は女房役に、その生態を把握されているらしい。

 そこから兄が到着するまで、体感では二分とかからなかったと思う。


「名前?! どーした?!」
「お兄ちゃん、ごめんなさい。来ちゃった」
「いや、うん、それは全然いーんだけど」


 駆け寄って来てくれた兄が、わたしの目の前で足を止める。束の間わたしをじいっと見て、それからもう一度「⋯⋯どーした?」と問うた。

 今度は静かな、声だった。


「⋯⋯潰れちゃいそうで、心臓が」


 逡巡して答えたその声は、情けなくも震えていたように思う。
 
 
「⋯⋯決勝はね、わたしが渇望した組み合わせのはずなのに、楽しみで仕方がないはずなのに⋯⋯どうして、お兄ちゃんか一也くん、どっちかの夏が終わっちゃうんだろう。どうして神様はどっちも甲子園に連れていってくれないの。⋯⋯お兄ちゃんも一也くんも、どっちも勝てばいいのにって心底思うよ」


 俯きながら落とした本音。それを皆まで聞いてくれた兄は、呆れたように笑った。

 
「どっちかだからいーんだよ」
「⋯⋯やだもん。いざとなると、やだ」
「──怖い?」
「──うん、怖い」
「はは、素直でいーね」


 くしゃりと頭を撫でられる。その手つきと笑顔が、幼き頃の兄に重なって。涙が滲んでしまった。それを見て再度笑ってから、兄はふと視線を落とした。その視線の先には、鳩尾の高さで広げられた兄の左手がある。

 
「⋯⋯名前ってさぁ、俺の左手触んないようにしてんでしょ?」
「あれ⋯⋯知ってたの?」
「まぁ、何となくだけど」
「そんなにあからさまだった?」
「いや? 気付いたのも結構最近なくらいだし」
「全然悪い意味じゃないの。触んないっていうか、触れないんだよ。触っちゃいけない場所な気がして」
「⋯⋯なんで?」
 

 ──何で名前は、そう思う?

 兄の瞳が、そう問いかけている。 

 兄が野球を始めてから、触れることが出来なくなった。自分と同じはずの腕から、魔法のように球が放たれる。それはまるで生き物のように息吹を持っていて、まだ幼かったわたしにとっても、そして今のわたしにとっても、畏怖と憧れの対象なのだ。
  
 この左手は、聖域だ。


「⋯⋯って、こんな話するの心底恥ずかしいんだから、せめて笑わないで聞いてよー」
「いやー、だってさぁ、褒められるって気持ちいいからさぁ。てっきり怪我させたら困るとかそんな理由かと思ってたら、そーかそーか、名前には兄ちゃんがそんなに格好よく見えるか」


 下手に否定もできず、ただただ兄の鼻の下が伸びていくのを眺めるよりほかなかった。いやそれにしてもよく伸びる鼻の下だこと。などと口を尖らせていると、暫く経ってから兄はようやく表情を正した。


「冗談じゃなくてさ⋯⋯名前がそんなふうに思ってくれてたこと、確かにここに持ってく」


 それは、いつか見た光景だった。
 
 握った拳で、トン、と自身の心臓のあたりを叩く仕草。そうだ。去年の夏の決勝戦前も。一也くんが、こうしてわたしの想いを持っていってくれた。


「ねぇ名前。これは俺たち──俺と一也の、正真正銘高校最後の戦いだ。結果はどうあれ、名前が俺たちの野球を信じてくれてることが、力になる。⋯⋯だから触ってよ。これまでで最高のピッチングしてみせるからさ」
「⋯⋯っ、うん」


 野球と出逢ってから守り続けてきたものが、ついに解かれる。
 
 握手を求めるように差し出された左手。その手を両手で、そっと包み込む。恐る恐る。宝物に触れるように。そこに額をこつんと当て、まるで祈りを捧げるかのように目蓋を下ろす。去年一也くんに捧げた祈りを、今年は、二人に捧げるのだ。神のみぞ知る結末に。彼らの野球に。

 そして数秒ののちに目を開け、名残惜しく思いながら手を解く。
 
 兄はその左手で再度、己の心臓を打った。
 
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