22.こっちとそっちの真ん中なんだ

  
 七月二十八日。
 決勝戦の日の朝は、晴れていた。

 目覚ましが鳴るよりも随分と早くから目を開いていた。いや、開いていたというよりも眠れなかった。殆どと言っていい。興奮からなのか、不安からなのか、とにかく寝付くことができず、時折ふっと意識がどこかに行ったような夢見心地に陥っては、試合のことを思い出してばちっと目が醒める。その繰り返しで、気が付くと空は白み始め、鳥がちゅんちゅんと囀るようになっていた。

 この時間になってしまえば、今更寝ようとも思わない。寝不足のはずなのに妙に軽い上体を起こす。カーテンを引っ張り外を覗く。朝焼けに押し上げられながらも、空の多くにはまだ夜の気配が残っていた。朝焼け独特の空気感。夕焼けのような物哀しさが身を潜め、物憂げな中に一日分の活力が籠っているかのような。

 グラウンドが見たいな。無性にそう思う。落ち着かない心をなんとかしたい。この時間ならまだ誰もいないだろうし、一人きりで気持ちを整理できる。気がする。

 ベッドから足を下ろす。一度ちいさく伸びをして、準備をする。そうしてわたしは、まだ澄んでいる早朝の空気のなかへとゆっくり入っていった。





 グラウンドには予想通り誰もいなかった。
 その静けさに少し迷ってから、中に入り外側をゆっくりと歩いて外野の隅の芝生に腰を下ろす。朝陽が昇ってきた。まだ眩しくはない。眩しくはないけれど、目映いなと思う。グラウンド中のそこかしこが真新しい光を受けて煌めいている。風が吹く。芝が揺れる。空気が瞬く。

 ああ、──ここに来てよかった。

 心が凪いでいく。深く吸った息が身体の隅々に行き渡る。はぁ、と感嘆に近い溜め息をついて、背中を芝生に預ける。視界いっぱいに青く澄んだ空が広がる。夏の空。綺麗だ。綺麗で、どこか強い。


「⋯⋯綺麗だな」
 

 このままこうしていよう。皆が起き出して、今日という日が動き出すまで。何も考えなくていい。わたしには、見守ることしかできないのだから。

 徐に瞼を閉ざしてみる。部屋にいる時より、不思議と“眠たい”と思う。身体が浮いているみたいだ。頬を掠める風を感じながら、うつらうつらと、何かの狭間を行き来する。

 そうしてどのくらいが経っただろうか。そろそろ時刻の確認をしようと思った矢先のことだった。閉ざした瞼の向こうにふっと影が落ちて。不思議に思い目を開ける。
 

「⋯⋯一也くん」
「おはよ」
「ふふ、おはよう」


 視界の中央に真っ逆さまに、一也くんがいた。今日という日の一番最初に会えるなんて幸せだなと暢気に考えていると、彼は背後を振り返り、「起きてるわー! 何ともなさそう」と声を張った。向こうから「あ、そうっすか、良かったです! じゃあ俺ら先行ってますんで!」と沢村くんの声が返ってきた。見ると降谷くんの姿もある。どうやら皆で早朝の散歩でもしていたらしい。そしてその最中に地べたに転がっているわたしを見つけ、駆け付けてくれたのだろう。


「もしかしなくても心配かけちゃった」
「そーだよ。こんなとこに人倒れてる、やべぇって思ったらお前だし。何してんの、寝てたのか?」
「ううん、寝てないよ。日向ぼっこしてただけ」


 一也くんは「はぁ、日向ぼっこねぇ」と笑いながら、同じようにごろんと身体を横たえた。真っ直ぐに空を仰ぐその横顔を見つめて、わたしからも笑みが溢れる。
 

「寝れなかったって顔してる」
「お前もな」
「あはは、寝れないよねぇ」


 こんな日を前にしてぐっすり眠れる人は稀有だろう。皆、懸けているものが大き過ぎるのだ。高校生、高々十七年程を生きてきただけの未熟な身体と精神とで、その短い人生の余りにも多くを捧げている。

 その渦中に自分がいることが、時折信じられなく、夢のように思う。
 
 
「気持ちいいねー」
「ああ」


 それきり、言葉はない。世界の息吹と、隣にいる一也くんの存在。それだけが今この場所のすべてだ。

 少しして、一也くんがちいさく口を開く。

  
「そろそろ戻るか」
「うん」
「──⋯⋯名前。行ってくるぜ」
「うん。行ってらっしゃい」


 片肘を付いて上半身だけを起こした彼の身体が、まだ低い朝陽を遮る。瞼を閉じる。頬を撫でられた次の瞬間、唇にそっと、彼の柔らかなそれが重なった。







 じりじり。そんな音が聞こえた気がした。
 午後一時。気温三十二度。朝より雲が掛かった曇り空。満員の観客。その歓声の中に響いた王者の掛け声を引っ提げて、試合開始のサイレンが空を衝く。そのサイレンを追って、視線を空に注ぐ。

 これが、最後だ。
 どちらかの高校野球の、正真正銘の最後なのだ。

 先攻青道、後攻稲実で始まった運命の決勝戦。稲実の先発は勿論兄、成宮鳴。マウンドに立つ兄の姿に、打席に立つ一也くんの姿に、込み上げる。胸が苦しい。気迫が違うのだ。纏う空気が、違うのだ。これまで幾度となく二人の姿を見てきたけれど、今日の二人は、紛れもなく過去で一番雄々しく、猛々しく、そして静謐でもあった。

 そんな二人が、許された者だけが足を踏み入れられるあの場所に、わたしの想いを持っていってくれた。それが力になると言って。笑ってくれた。

 ──二人とも、頑張って。

 視界が滲んでしまわないように喉に力を込め、祈りながら試合を見つめる。誰の一挙手一投足も見逃すまいと。瞬きの間に“過去”になっていってしまう今この瞬間を、ずっと脳裏に刻んでおけるように。

Contents Top