昨年の夏の大会直前。肩を故障してしまった時のことは、一也くんから聞いていた。
珍しく静かで、落ちた電話越しの声。「事実上の引退宣告だよ⋯⋯正捕手争い、してみたかったんだけどな」と、心底残念に思っている声音に、聞いていたわたしの胸までが詰まった。
今はリハビリを続けながら、練習にも可能な範囲で参加し続けている。最近は沢村くんの師匠(?)もしている。スペシャル自主練メニューが記された秘伝の巻物──現在のところ全二巻──が、師弟感を助長しているのだと個人的には思う。
「どうだ、少しはマシになったか?」
「⋯⋯わ、歩ける。クリス先輩すごい! ありがとうございます!」
この技術、是非とも身につけたい。
「上手くできるようになるまで俺も一緒にやってやるから、声かけろよ。他のヤツが捻挫した時にも役立つだろう」
「⋯⋯ありがとうございます」
淡々とテープ類の片付けをするクリス先輩。話すのは今回が初めてに等しく緊張するけれど、思い切ってここ数日気になっていたことを問うてみる。
「あの、沢村くん、どうですか?」
「⋯⋯正直ウザい」
「ぶっ、ふふっ」
思わず吹き出してしまった。真面目な顔をして非常に直球な物言いだ。聞けば最近の沢村くんは、クリス先輩の後を追っかけまわしているという。お風呂やトイレにまで来られれば、流石に嫌になるか。わたしなら絶対に嫌だ。
「⋯⋯この間、沢村くんに『俺の持ち味って何だ?!』って聞かれました」
「それで?」
「ぐにゃぐにゃした球じゃないかって言ったんですけど、伝わらなかったみたいで⋯⋯『苗字まで! 俺はまっすぐ投げてるんだ!』って泣いちゃって」
「⋯⋯言葉のチョイスが悪かったな」
「なんて言えばよかったんでしょう」
「⋯⋯入部してから野球に細かく勉強しているんだろう? いい機会だ、教えてやろう」
かくして今ここに、【楽しく学ぼう! クリス先輩の野球講義! ―クセ球編― 】が開講されることになったのだ。
「へええ⋯⋯沢村くんのクセ球って、そういう理屈なんですね」
なんてわかりやすいのだろう。わたしは足の痛みも忘れて、クリス先輩の講義に聞き入っていた。
つい三分ほど前、わからないことがあって「はい先生! 質問です!」と手を上げた。ツッコんでくれたり、「はい苗字さん、質問どうぞ」などとノッてくれたりはしないけれど、一方でバカだなと笑いもせず、「なんだ?」と聞いては丁寧に教えてくれた。
「これ、沢村くんにはまだ?」
「ああ。まだ教えていない。少しは自分で考えないと成長しないからな」
もっと教えてほしい。
もっと知識がほしい。
見たものを言葉と結びつける知識。彼らのプレーを形容する知識。違和感を表現する知識。
たくさん学んだつもりだったけれど、全然足りない。たったひと月机にかじりついたくらいで、何を得た気になっていたのだろう。
わたしもクリス先輩に弟子入りしたい。沢村くんの妹弟子で全然構いません。
勢いでそう伝えてみると、「却下だ」と一蹴された。
「悪いな。俺は今、沢村で手一杯だ。⋯⋯御幸にでも教えてもらえ」
その顔に浮かぶ、酷く優しい笑みと、酷く悲しそうな哀憐。相反するものが複雑に共存しているように見えて、言葉に詰まった。
ふと、クリス先輩が空を仰いだ。
つられて見上げる。鳶が一羽、飛んでいた。ややあってからクリス先輩へ視線を移す。
力を失ってしまったその瞳の奥。
静かに静かに、炎が燃えている。
──沢村くん。
沢村くん。どうかこの人を、あなたのバカみたいな元気さで、前向きさで、真っ直ぐさで照らして。
そう呼びかけていた。