06.涙の降る音


 昨年の夏の大会直前。肩を故障してしまった時のことは、一也くんから聞いていた。

 珍しく静かで、落ちた電話越しの声。「事実上の引退宣告だよ⋯⋯正捕手争い、してみたかったんだけどな」と、心底残念に思っている声音に、聞いていたわたしの胸までが詰まった。

 今はリハビリを続けながら、練習にも可能な範囲で参加し続けている。最近は沢村くんの師匠(?)もしている。スペシャル自主練メニューが記された秘伝の巻物──現在のところ全二巻──が、師弟感を助長しているのだと個人的には思う。


「どうだ、少しはマシになったか?」
「⋯⋯わ、歩ける。クリス先輩すごい! ありがとうございます!」


 びっこを引く形にはなるけれど、それでも自力で歩ける。すごい。テーピングだけでこんなに痛みが和らぎ、歩行可能になるのか。

 この技術、是非とも身につけたい。


「上手くできるようになるまで俺も一緒にやってやるから、声かけろよ。他のヤツが捻挫した時にも役立つだろう」
「⋯⋯ありがとうございます」


 淡々とテープ類の片付けをするクリス先輩。話すのは今回が初めてに等しく緊張するけれど、思い切ってここ数日気になっていたことを問うてみる。


「あの、沢村くん、どうですか?」
「⋯⋯正直ウザい」
「ぶっ、ふふっ」


 思わず吹き出してしまった。真面目な顔をして非常に直球な物言いだ。聞けば最近の沢村くんは、クリス先輩の後を追っかけまわしているという。お風呂やトイレにまで来られれば、流石に嫌になるか。わたしなら絶対に嫌だ。


「⋯⋯この間、沢村くんに『俺の持ち味って何だ?!』って聞かれました」
「それで?」
「ぐにゃぐにゃした球じゃないかって言ったんですけど、伝わらなかったみたいで⋯⋯『苗字まで! 俺はまっすぐ投げてるんだ!』って泣いちゃって」
「⋯⋯言葉のチョイスが悪かったな」
「なんて言えばよかったんでしょう」
「⋯⋯入部してから野球に細かく勉強しているんだろう? いい機会だ、教えてやろう」


 かくして今ここに、【楽しく学ぼう! クリス先輩の野球講義! ―クセ球編― 】が開講されることになったのだ。







「へええ⋯⋯沢村くんのクセ球って、そういう理屈なんですね」


 なんてわかりやすいのだろう。わたしは足の痛みも忘れて、クリス先輩の講義に聞き入っていた。

 つい三分ほど前、わからないことがあって「はい先生! 質問です!」と手を上げた。ツッコんでくれたり、「はい苗字さん、質問どうぞ」などとノッてくれたりはしないけれど、一方でバカだなと笑いもせず、「なんだ?」と聞いては丁寧に教えてくれた。


「これ、沢村くんにはまだ?」
「ああ。まだ教えていない。少しは自分で考えないと成長しないからな」


 もっと教えてほしい。
 もっと知識がほしい。

 見たものを言葉と結びつける知識。彼らのプレーを形容する知識。違和感を表現する知識。

 たくさん学んだつもりだったけれど、全然足りない。たったひと月机にかじりついたくらいで、何を得た気になっていたのだろう。
 
 わたしもクリス先輩に弟子入りしたい。沢村くんの妹弟子で全然構いません。

 勢いでそう伝えてみると、「却下だ」と一蹴された。


「悪いな。俺は今、沢村で手一杯だ。⋯⋯御幸にでも教えてもらえ」


 その顔に浮かぶ、酷く優しい笑みと、酷く悲しそうな哀憐。相反するものが複雑に共存しているように見えて、言葉に詰まった。

 ふと、クリス先輩が空を仰いだ。
 つられて見上げる。鳶が一羽、飛んでいた。ややあってからクリス先輩へ視線を移す。

 力を失ってしまったその瞳の奥。
 静かに静かに、炎が燃えている。

 ──沢村くん。
 沢村くん。どうかこの人を、あなたのバカみたいな元気さで、前向きさで、真っ直ぐさで照らして。

 そう呼びかけていた。

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