兄も降谷くんも圧巻のピッチングを見せる投手戦となった試合。両校得点圏にランナーは出るものの、得点には至らない。そんな均衡した盤面が動いたのは、五回裏、稲実の攻撃でのことだった。
先頭打者を四球で塁に出し、打順が一番に回ったところでバスターエンドランを仕掛けられ、走者は一・三塁。迎えた二番白河くんの意地のスクイズで、ついに稲実に先制点を許すことになってしまった。この先制点に大きく揺らいだわけではなさそうだったけれど、次打席も四球となり、走者一・二塁で迎えるは四番の山岡くんというピンチが続く。しかし降谷くんの気迫の籠った球と、麻生先輩のフェン直スーパーダイビングキャッチで何とか凌ぐことができた。
続く六回表、もっち先輩が執念の四球で出塁し、更には盗塁を決めノーアウト二塁。続く小湊くんのセカンドゴロで三塁へと進む。次いで白州先輩への死球でワンアウト走者一・三塁。このチャンスで打席に立つのが──一也くんだ。
「⋯⋯一也くん」
胸の前で指を組んでいた。兄と対峙する彼の姿を見つめる。二人の対決を無邪気に応援していた頃が懐かしい。もうあの頃には戻れない。今は背負ったものが随分と多くなってしまった。それは各々が積み上げてきた時間の重みそのもので、織り成してきた心そのもので、でもだからこそ、今この瞬間を尊ぶことができる。
食い入るように見つめる中、兄が放った四球目。低めに放たれた渾身のチェンジアップを、一也くんのバットが──ついに捉える。兄のウイニングショット。難攻不落と思われたその球は弾かれ、セカンドの頭上を越えライトの前に落ちた。三塁にいたもっち先輩が、本塁に帰ってくる。
──大歓声が、球場を包んだ。
青道側のスタンドはその歓声に一際貢献していて、隣の人の声さえ聞き取りにくい。そんな折、前に座っていた渡辺先輩が不意に振り返り、わたしの顔を見上げた。
「あ、泣いてない」
「な⋯⋯っ、そんないつも泣いてるわけじゃ⋯⋯! まだ同点ですし!」
「アハハ」
そうだ。まだ同点だ。
走者一・三塁のチャンスが続いているとはいえ、得点だけを見れば振り出しに戻ったに過ぎない。落ち着いて。落ち着くんだ。そう言い聞かせ、細く息を吸う。気が付けば吸い込む空気が随分と熱い。いつの間にか雲から顔を出していた太陽と、球場を包む観客の熱気とが、この場所の気温をぐんぐん上げているのだろう。
もう一点。いや、何点でも追加点がほしい。兄からは容易に点は奪えない。この又とない好機を逃してしまえば、もう二度と訪れないかもしれない。
高揚、期待、焦燥、重圧。
それらに圧倒され本来の力を出せず、気持ちだけが空回りして打席を去るというパターンは多い。
そんな状況下で、コツッと響いた音。
球とバットが当たる耳に馴染んだ音が、歓声に煩いはずの球場内にやけに響く。前園先輩のセーフティスクイズだった。三塁の白州先輩がホームベースに滑り込む。主審の手が、水平に動く。
これで、この回二点。
──逆転だ。
「ぞ⋯⋯っ、ぞのっ、前園せんぱーーーい!」
今度ばかりは叫んでいた。飛び上がるように両手を上げメガホンを振り回し、──最早恒例となっているけれど──隣の春乃ちゃんをもみくちゃにする。喜びを分かち合いながら、視線をグラウンドに戻す。
本当に、複雑な心地だ。
そこには今大会初失点の、ひとりマウンドに立つ兄の姿。たくさん見てきた。気高く立つ兄も、ムキになる兄も、意地とプライドだけでしがみつく兄も、崩れていく兄も。
それでもいつだって、兄は強い。
この夏初めての失点を許しても、兄の投球が崩れることはなかった。それどころかむしろ凄みを増していく。これでこそ兄だ。わたしが憧れる、兄だ。そんな兄に降谷くんも負けることはなく、センバツを彷彿とさせる圧巻の投球を見せ、六回を投げ抜いて九十九球。ここでエースナンバーをその背に背負う沢村くんへの継投となる。
「⋯⋯すごかったよ、降谷くん」
センバツ以降調子を崩し、怪我も経験し、エースナンバーも失い、苦しみもがいてきた姿を間近で見てきた。それでいて、この堂々たる投球。独り言も落ちるというものである。
そんなわたしの呟きに振り返った渡辺先輩が、「あ、今度は泣きそう」と笑う。渡辺先輩にしてはいつもより揶揄いがちな気もするけれど、そうでもしなければどうにかなってしまいそうなのだ。この緊迫感に。この高揚感に。託した想いの大きさに、ひしゃげてしまいそうだから。誰かの存在──ひいてはスタンドにいる部員全員──で分かつことで、心の行き場を作っているのだ。
続く沢村くんも、エースに相応しい投球を見せた。彼にとってはトラウマとも言える、去年の夏の決勝戦。きっとあの日を超えたくて、沢村くんだけに限らず、誰も彼も足掻いてきた。
そうして決死のプレーを続け、点差一点のまま迎えた最終回。表の攻撃で青道は二塁まで走者を進めるも、未だ進化を止めない兄の前に追加点を奪うことは叶わなかった。
兄は、どこまでも進化する人だ。
終着点など存在しないとでも言いたげに。どんな時でも。どんなふうにでも。進化を止めることはない。そうして九回をひとりで投げ抜いた。
残すは、九回裏のみ。
まるで去年の夏のようだ。あとアウトひとつ。アウトひとつで甲子園。そう思った矢先の、逆転劇だった。
固唾を呑んで見守る中、九回裏が始まり兄が打席に立つ。沢村くんの二球目、少し浮いてしまった球を兄のバットが捉える。ぐん、と勢いよく伸びる打球。ライトスタンドに向かって一直線に駆ける放物線に、球場中が釘付けになった。
「う⋯⋯うそ、まさか⋯⋯」
「ある、あるよ、入るよ!」
「おいおいマジかよ入るんじゃね?!」
各々が思い思いに呟く言葉が、ざわめきと化す。この時わたしは、自分が何を思っているのか、自分自身で把握することができなかった。頭の中ではきっと、「これが入れば同点、延長、それともサヨナラ、入らなければ二塁で⋯⋯」みたいないくつもの可能性のある未来が過ぎっていたはずで、その何れもに対して“青道の一員”と“成宮鳴の妹”という立場で抱くのであろう感情を想起していたはずだ。
けれど、それを自認することはできていなかった。ただ、呆然と。グラウンドの上を飛んでいく白球を追っていた。
その球がフェンスのてっぺんに当たって、弾かれて、グラウンド側に向かって落ちてきた時。身体のどこから出したのかわからないような息を吐いていた。そのとき初めて、ずっと息を止めていたことに気が付いた。
結果としてノーアウト二塁となり、続いた多田野くんにセンター前ヒットを打たれ、ノーアウト一・三塁。やはり、こうなる。夢には簡単には手が届かないし、相手だって、簡単には許してくれない。このヒリつき。見ていられないような試合展開で、それなのに片時も目を離せない。
これだから。野球は、楽しいのだ。
一発が出ればサヨナラだってあり得るこの場面。矢部くんの打った球が、レフトの正面へと飛んでいく。
犠牲フライ。同点。延長。
そんな単語が、フラッシュライトのように脳裏に浮かぶ。けれど、飛んだ先はレフトだ。そこには降谷くんがいる。兄の足と。降谷くんから一也くんへの返球と。どちらが速いか。想像の中でリアルな映像が動く。
「⋯⋯降谷くんだ。降谷くんが、きっとはやい」
呟いた直後、描いたイメージを凌駕する矢のような返球が、真っ直ぐに一也くんへと突き刺さる。一也くんが捕って。滑り込んできた兄に、触れる。主審の手が上がる。稲実の逆転への期待に湧いていた球場が、今度は降谷くんの素晴らしい返球に湧く。
これでツーアウト。
あと、アウトひとつ。
あとアウトひとつで、甲子園に手が届く。
いや、ここで期待してはいけないと知っている。浮ついてはいけないと知っている。去年のように最後の最後まで何が起こるかわからない。そんなこと、嫌というほどに知っているのに、それなのに。
逸る心を抑えられない。きっと大丈夫。皆なら大丈夫。きっちりとアウトを取って、きっと勝利を手にできる。そう思ってしまう。反面、それでももし、去年のようなことが起こったら。そう考えてしまう自分も確かにいるのだ。信じていないわけではないのに、そう思ってしまうのだ。
心とは、人間とはなんと難しい。愚直にひとつの思いだけを貫き通せる生き物であったなら、いっそ楽だったかもしれないのに。
そして球場中の皆が息を詰めグラウンドを見つめる最高潮の緊迫感の中、沢村くんと一也くんが紡いだ投球が最後の打者を、
──三振に仕留めた。