22.こっちとそっちの真ん中なんだ


 一瞬、世界から音が消えて。

 次の瞬間には、まるで世界中が歓声を上げたかのような地響きに包まれていた。四方からの歓喜にもみくちゃにされる。

 ──甲子園。

 勝った。勝ったんだ。甲子園を掴んだんだ。目の前の光景と周囲の反応がそれを裏付けているはずなのに。これが本当に現実なのか。夢ではないのか。上手く認識できない。何だか身体に力が入らない。ふわふわと崩れ落ちそうになる身体を、ずっと隣にいた春乃ちゃんが抱き締めてくれる。いつから零れていたのかわからない涙で視界はぐちゃぐちゃだ。
 
 言葉が、出なくて。

 春乃ちゃんの腕を掴んだまま、ただ、グラウンドへと視線を注ぐ。喜びも、そして悲しみも。両校各々が受け入れ、分かち合い、整理すべき莫大な感情。それらを理解する暇さえ与えられず、すぐに整列、そして礼。

 互いの選手が健闘を称え声を掛け合う中、兄が、一也くんを呼んだように見えて。がちりと握手を交わしたあと、兄のほうから一也くんを抱擁する。少し背の違う、わたしがずっと追いかけてきた二人の抱擁。兄の左手が、ぎゅっと一也くんのユニフォームを掴んでいる。それだけが、いやにはっきりと見えてしまった。







 レギュラー陣が出てくるまで待ち切れず、人垣を抜け、一直線にベンチ裏へと駆ける。身の回りの片付けをしている彼の姿を見た瞬間、何もかもが溢れてしまって、漸く引っ込んでいた涙が容易く堰を切る。
 

「かっ、かず、一也くん!!!!」
「──名前」 
「おめっ⋯⋯おめで⋯⋯えっ、ぅわ、あぁぁーーーーーっ?!!!!」


 両脇の下を掴まれたと思うや否や、ぶわっと身体が持ち上がり掲げられる。駆け寄っていた勢いをいなすようにそのままぐるりと一度、宙を回る。

 きっとそのまま抱き締めようとしてくれたのだと思う。ふわりと彼の胸に降り立つかのような雰囲気を感じたその直後、今の周囲の状況をはたと思い出したようで、無言でそっと地面に降ろしてもらえた。代わりにわっしゃわっしゃと頭を撫でられる。


「まだまだ続くぜ、俺らの夏!」
「⋯⋯っ」


 笑顔が! 眩しすぎる!
 目の前で弾けた笑顔に、いつかの少年時代が重なって。彼があの頃見ていた夢がひとつ叶ったのだと思うと、胸がいっぱいになる。
  

「⋯⋯っわたし⋯⋯わたし、」
「ははっ、そうなると思ってたよ」


 二の句が継げないわたしの頭を、今度はぽんぽんと、優しい手のひらが上下する。たくさん伝えたいことがある。それなのにひとつとして言葉にならない。涙ばかりが溢れて、溢れて。それが結局、閉会式が終わるまで泣き続けていたという沢村くんの涙を再度誘うことになり、それがさらに前園先輩の涙も誘うことになり、皆に優しくされたり揶揄われたりしながらおいおいと泣くことになったのだ。

 控え室を出て、他の部員や応援に来てくれていた先輩たちと合流する。そのタイミングで、ずっと迷っていたことをやはり行動に移すことに決める。


「一也くん、あの」
「どーした?」
「わたし⋯⋯お兄ちゃんに、会ってくるね」
「──ああ」


 別に“今”でなければならない絶対的な理由はない。兄が今どんな状態でいるかだってわからないし、そもそも青道に属するわたしが稲実側に出向くということは、事情を知らぬ人たちからしたり、そうでなくとも見方によっては当て付けとも捉えられかねない。けれど。会いたい気持ちばかりが、膨れ上がっていくのだ。

 その逡巡を一也くんは感じ取ってくれたのかもしれない。「そんな顔しなくても大丈夫だと思うぜ」と頷き、それから少しだけ、視線を落とした。


「俺は最後グラウンドで話したから⋯⋯お前も、そして鳴にも、必要だと思う。ここは大丈夫だから。行ってこい」


 その言葉に背を押され、力強く頷く。勝利の熱が冷めやらぬ青道の輪から、わたしは静かに離れた。

 稲実も荷物の搬出は終わっている頃だろう。最初からアーケードの方へ行こうかどうか迷ったけれど、何となく、兄はまだベンチ裏にいるような気がして。人気のなくなった廊下を進んでいた時だった。
 

「あ⋯⋯」


 廊下の奥。ちょうど稲実側のベンチ裏あたりから出てきた姿に、はたりと足を止める。

 ──国友監督だ。

 どうしよう。その言葉が真っ先に浮かんだ。どんな態度が正しいのだろう。わからない。というか流石に怒られるだろうか。いくら兄妹といえど、時と場合を弁えろと言われてしまうだろうか。

 そんなことを考えているうち、監督との距離はあっという間に縮まる。とにもかくにも、姿勢を正し深々と頭を下げる。すると国友監督は「成宮なら奥にいる。ゆっくり話してから戻ってくるといい。⋯⋯良い試合だった。おめでとう」と静かに、そしていつも通り淡々と、言葉をかけてくれたのだ。

 
「⋯⋯──っ、ありがとう、ございます」


 絞り出した声は、震えていた。
 
 これ以上、これ以外。この人に向かってわたしが口にできる言葉など、ひとつとして存在しない。

 球児たちと同じくその人生を野球に捧げ、そうして何年も何年も生きている人。その心情を推し量ることさえわたしには叶わないのに。こんな言葉を、いちマネージャーにくれるというのか。

 胸が打ち震えている。緊張なのか感動なのか畏怖なのか、自分でも掴めない。大腿の前で握っていた拳をぎゅっと握る。静かに遠ざかっていく足音が聞こえなくなるまで、わたしは頭を上げることができなかった。

 

 兄は、ベンチ裏にいた。

 すっと背筋を伸ばして座るその姿。暗がりにひとり佇む兄を切り取るように、ゆっくりと瞬く。それから声をかけようと息を吸う。しかしその息さえ震えてしまって、もうひと呼吸分、声を発するのを見送った。そうして漸く、口を開く。
 

「──お兄ちゃん」
「⋯⋯名前」


 一度、肩を小さくぴくりと揺らして。一瞬だけ驚いた表情を浮かべてから、兄は「何こっち来てんのさ」といつものように言ってみせた。いや、“いつものように振る舞って言ってみせた”が正しいのだろう。強がったその瞳に、力はない。今の今まで泣いていたような赤い目元。掠れた声。けれど兄がそれを隠そうとしているのだから、わたしも、いつものように振る舞って返事をするに努める。


「だって国友監督がここにいるって教えてくれたんだもん」
「は⋯⋯? 監督が? 何してんのあの人」
「だからそっち行ってもいい?」
「ダメっつっても来るんでしょ。おいでよ」
「うん」


 てて、と小走りで兄のもとへ急ぎ、左隣にちょぼりと腰を下ろしてみる。ひとつ。ふたつ。握った手のひらで数を数えてから、そっと口を開く。

 
「⋯⋯あのねお兄ちゃん」
「なに」
「すごい試合だった。わたし、生きてる間にこんな試合が観れてよか⋯⋯っ本当にお疲れさ⋯⋯っ、ぅ、わぁん」
「は、ちょっと?! 急に⋯⋯てか俺より泣かないでよ?! マジで! 立場ねぇじゃん! しかもそんな子どもみたいに⋯⋯」

 
 何だかんだと言いながら、兄は笑っていた。困ったように。呆れたように。何かを、懐かしむように。
 

「ほんと、ガキの頃からちっとも変わってないね、泣き方。いっつも試合観に来てさ、負けたら俺より泣いて⋯⋯」


 伸びてきた兄の左手。中指の先にマメの破れた血の痕。その指を避けるようにして、ごしっと頬を拭われる。いつもそうだった。すぐに泣いてしまうわたしに笑って。少し乱暴に涙を拭ってくれた。

 
「お兄ちゃん、わたし⋯⋯っ、お兄ちゃんの妹に生まれてきて本当によかった⋯⋯」
「ちょっと。今生の別れみたいな台詞吐かないでくれる」


 鼻の頭を摘まれる。痛い。痛さに瞬くと、またひとつ、涙が落ちる。それを拭って、「ったく、何で俺が慰めてるみたいになってんの」と笑った兄は、そのままわたしの肩を軽く抱き寄せた。

  
「行ってこい、名前。その目で見てこい。あの舞台に“自分たちが立つ”ってことが、どんなことなのか」
「⋯⋯っ、うん」


 去年の夏、兄の肩口に預けた想い。それを今度は、わたしが持っていく。とてもわたしひとりで抱えられる大きさでも重さでもないけれど、それでも。持っていく。

 きっと一也くんも、持ってくれているはずだから。最後のあの時に一也くんのユニフォームを掴んだ兄の手が、預けているはずだから。

 
「⋯⋯よし、そんじゃ、皆も待ってるしそろそろ行くよ」
「えっ、待って、写真撮ってない!」
「は? 写真?! こんな時に?!」
「だってそのユニフォーム着たお兄ちゃん最後かも⋯⋯!」
「うわ、できたばっかの生傷に塩刷り込まれてんだけど⋯⋯つーか名前今の自分の顔わかってる? いーの?」
「いーの! 一緒に泣き腫らした顔で撮る!」
 

 文句を言いつつも、構えたインカメラに視線を送り、何ならポーズも決めてくれる兄と何枚も写真を撮る。その最中「俺にも全部送っといてよね」と言われ、笑ってしまった。

 満足いくまで写真を撮り、いよいよ立ち上がった兄は、出口に向かった足を止め、呟く。

 
「ありがとね、名前。ここに来てくれてさ。嬉しかったよ。⋯⋯名前に俺の高校野球の集大成見せれてよかった」
「⋯⋯っ」
 

 その背をただ、記憶に焼き付けるように見つめる。“稲代実業の成宮鳴”としての最後の背中。今日まで兄が築いてきた日々に敬意を。成宮鳴という人間に、最大の賛辞を。





◇こっちとそっちの真ん中なんだ◆

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