23.謡のように

 ──夏が終わる。

 甲子園。毎日ドラマのような試合が生まれ、必ず勝者と敗者に分かれ、そうして汗と涙にまみれた誰かの青春が終わっていく。

 息をするのも苦しいうだるような暑さ。青空を突き抜けるブラスバンドの音。駆ける白球。熱狂。歓声。サイレン。球場で感じる全てが耳の奥で木霊して、不意に興奮が呼び起こされてはいつまでも冷めない。

 そんな毎日を甲子園で過ごした。夢のようだった。連日のホテル生活も、データ収集を兼ねた観戦も、自分たちの試合も、どの一秒を取っても酷く濃厚で、どの一秒も忘れたくないと思った。

 永遠かに思われた。

 しかしその甲子園でさえ。

 終わってみれば、一抹の。

 一瞬で過ぎてしまった半月足らず。あんなにも濃密だったのに。本当に自分が経験したのかと疑いたくなるような、不思議な感覚が残る。

 楽しかった。幸せだった。けれど。
 
 夏の終わり。それは、一也くんの夏が終わるということだ。三年生が部活を引退する。一也くんが、引退する。わたしはその事実に触れられないでいた。“本当”になってしまうことが怖くて。目を背けてしまう。逃れる方法などないのに。分かりきっていることなのに。性懲りもなく、取り残される術を探してしまったりして。

 そんなわたしを置き去りに、東京に戻るとすぐ、晴れやかな表情の三年生が着々と部を去る準備を進めていく。新チームも動き出す。皆、次のステージへと進んでいくのだ。

 わたしだけが、動けない。
 
 寂しい。その気持ちが何もかもを覆い隠してしまう。一也くんが部からいなくなる。その事実のあまりの寂寥に、身動きができなくなる。

 いつか来る日だった。遅いか早いか。それだけだ。必ず終わりは来るし、その日を皆のこんなに清々しい表情で迎えられたことは幸せなことに違いない。

 わたしが、受け入れられないだけだ。
 

「お、やっぱ来てた」
「⋯⋯一也くん」


 残り僅かの夏休み。甲子園を戦い抜いたわたしたちにほんの少しだけ与えられた余暇。帰省したり、退寮の準備をしたり、自主練をしたりと、各々が思い思いに過ごすことのできる稀な日だ。

 わたしも実家に顔を出そうと思っていた。兄もいるらしいし。けれど、甲子園でやはり相当疲れが溜まっていたらしい。昨日寮に戻りベッドに横になった瞬間、泥のような眠りに落ちた。夢を見たかも覚えていない。次に目を開いたらとっくに正午を過ぎていた。起きてしまえば口渇も空腹も感じるのに、身体が信じられないくらい怠くて暫く動けなかった。ぼんやりと天井を見つめて、ただ悪戯に時間だけを消費した。

 当初は寝過ぎたせいで怠いのかと思っていた。けれど、どうやら違ったようだった。

 蛻の殻なのだ。

 身体も。心も。
 持てるすべてを懸けて挑んでいたものが終わってしまって。あらゆる物事に対する意欲というものがどこかへ行ってしまった。胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたようで、何もする気にならなかった。

 どのくらいの時間をそうやって過ごしたのか。

 さすがに一生このままでいるわけにもいかないと、漸く身体を起こし水分を流し込んだ。酷く身体が重かった。実家に帰る気力などとても起きなかった。待っているであろう兄に「なんか燃え尽きちゃった。今日は帰れないや。また明日ね」とだけ絞り出した気力で送り──すぐに鬼のような数の返信が来ていたけれどまだ見ていない──、気付けばふらふらと、学校に来ていた。

 依然として暑い空気を抜けて。静かな校舎を見上げ暫くぼーっとし、次いで「青心寮」の文字を仰ぎ眺めていたところで、どこから出てきたのか、一也くんに見つかったというわけである。 


「どうしてわかったの? 学校来てるって」
「昨日帰ってきてからのお前の感じ見てたらな。実家帰んの無理だろうなって思うぜ、誰でも。上の空過ぎて誰の話も聞いてなかったし」
「え⋯⋯何も覚えてない⋯⋯」
「そりゃそーだろうよ、魂抜かれたみてぇになってたんだから。⋯⋯まぁ今もだけど」


 可笑しそうに笑ってから、彼はわたしの手首を取る。何も変わらない。いつもの彼だ。甲子園を経て更におおきくなり、もう前を見据えている。いつもの、一也くん。

 
「名前、ちょっと来いよ」
「⋯⋯」
「ほーら、来いって」
「⋯⋯うん」


 くいっと手を引かれ、頷く。無意識に近い首肯だった。どうやらわたしは彼に促されると如何なる時でも追う習性になってしまっているらしい。ちょぼちょぼとした足取りで後を追う。彼の歩先は、グラウンドへと向かっていた。


「ここ立って」
「ここ?」


 誰もいないグラウンド。綺麗に均されたマウンド。傾き出した陽光に、ひっそりと佇むマウンドが照らされている。橙へと変化し始めた世界は穏やかな哀愁を漂わせているのに、そこにだけ照明があたっているみたいだ。


「そう、そこ。投げてみ」
「⋯⋯いいの?」
「そのために来てんだって」


 手渡されたグローブと白球を見て、それからマウンドを見て、思わず問うていた。投手と、そして捕手の場所。果たしてわたしが立ってもいいのか。問わずにはいられなかった。けれど彼には何も気にした素振りはない。一瞬躊躇して、それから示されるがままマウンドに立つ。グローブをはめて、ボールを握って、顔を上げる。
 
 一也くんの場所。プロテクターを着けて、マスクを被って。投手の真正面に鎮座する。その場所に、ジャージに眼鏡というオフスタイルの一也くんが立っている。

 こんな、景色なんだな。

 緩やかな風が吹くマウンドから、その姿を見つめる。その場所で、数多の球を受け続けた人。これまでも。これからも。一也くんはそうして生きていく人なのだろう。

 もう一度、「投げてみろよ」と声。頷いて、振りかぶる。放る。わたしの手から放たれた球は、一度ぽてっと接地して、それからミットに収まった。ワンバウンドした球を難なくキャッチした彼は、「もうちょい前か」と数歩近付き、「ほら、もう一回」と球を投げ返してよこす。緩やかな弧を描いてぴたりと胸元に飛んできた球を、必死に捕る。もう一度、投げる。

 
「お、ここなら届くな。上手ぇじゃん、コントロールも結構いいし」
「えっ、ほんと?」
「うん、想像の十五倍くらい」
「ふふ、そんなに? ていうか数字が具体的でなんか⋯⋯もともとの期待値が低すぎるんだよ」
「だってお前見てみろよ、普段の運動音痴具合」
「う⋯⋯」
「だからもしかしたらコッチ方向に投げらんねぇかも、まで思ったぜ」
「キャッチボールだけは小さい頃からお兄ちゃんと少しやってたから」
「ああ、それで」


 思い出す。練習が物足りなかった時、何かが消化不良だった時、何かに触発され興奮した時、暇な時間ができた時、兄はすぐにわたしを引き連れて外に飛び出し、気が済むまで──或いは母に「晩ご飯よ」と言われるまで──球を投げていた。成長するにつれいつの間にかその時間もなくなってしまったけれど、身体は覚えているらしい。

 
「ん、身体慣れてきたっぽいな。もっといけそうじゃん。もう少し離れるぞ」
「わ、遠い、届くかなぁ」
「大丈夫だって」


 少しずつ少しずつ離れていく彼は、「そうそう」「いいね」「ナイスボール」と様々声をかけてくれる。その声に導かれるように、わたしの投げる飛距離も伸びていく。そうするうちいつしか定位置まで戻った一也くんは、「ほら、ここまで届いただろ。凄ぇじゃん。座るぜ」と、徐に腰を下ろす。彼の構えるミット。

 十八・四四メートル。
 
 夕焼けに、一也くんの姿が霞む。滲んで、霞んで、陽炎のように揺らめいて。不明瞭な視界の真ん中に、佇む永遠の憧憬の。


「⋯⋯っ、⋯⋯ふっ、ぅ」


 堪えきれず、マウンドにしゃがみこむ。涙が土に落ちる。これで、一也くんの夏が終わる。終わってしまう。本当の終わりなのだ。

 一也くんを追いかけてここに来た。最初は一方的な想いだった。こんなふうに二人でいられる未来は描けなかった。

 野球漬けの毎日を、わたしたちなりに懸命に生きた。ここで見る野球はいつもきらきらと眩しくて、その中には必ず一也くんがいた。

 でも、明日からは。

 一也くんは、──もういない。
 
 もう、この景色の中に。いないのだ。


「⋯⋯名前」
「⋯⋯っ、」


 蹲ってしまったわたしに、彼の足音が近付く。ざっ、ざっ、と靴底が擦れて。


「ありがとな。お前がいてくれたから、俺は──」

 
 ふわりとわたしを抱き締めてくれる手。その手が微かに震えている気がして、ぼたぼたと涙が落ちる瞳を、そっと閉じる。

 一也くん。

 一也くん。


「一也くん⋯⋯っ」
「俺さ、お前に笑っててほしくて、これでも結構足掻いてきたんだぜ。⋯⋯だからそんな泣かねぇでくれよ。俺はこれからも野球続けるし、名前はそれ応援してくれんだろ」
「ん、」
「⋯⋯お前がいる青道ここで野球ができて、本当に良かった」


 そんなの、そんなの。

 わたしの方が。

 
「──ありがとう、名前」


 風が吹く。一也くんの腕の中。堰を切ったような慟哭が、吹かれていく。夕焼けに染まる空の彼方に、わたしたちが過ごした一年半が刻み込まれる。消えることはないけれど。戻ることもない。

 そんな、日々だった。

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