「ただいまぁ」
昨日開くはずだった家の扉。一日遅れで敷居を跨ぎ部屋に入ると、夕飯の下拵えをしていたらしい母がキッチンから顔を出した。
「あら名前、お帰り。今日は大丈夫なの?」
「うん、復活した!」
「そう、よかった。甲子園、本当にお疲れさまだったわね。楽しかったでしょう」
「すっっごく楽しかった! これお土産!」
いくつもの袋をどどんとテーブルに並べる。我が家は兄のお陰で甲子園は幾度か経験済みであり、つまりお土産もそのたびに買っているのだけれど、やはりお土産選びというのは何度目でも楽しい。嬉々として袋の中身を振り分けながら、わたしはリビングを見回す。
「⋯⋯あれ、お兄ちゃんは?」
「寝てるわよー、そっちの影になってるソファで。少し前まで起きてたんだけどね」
「⋯⋯お兄ちゃんもお昼寝とかするんだ」
兄のぶんのお土産を抱え、ソファの背凭れの上からその寝顔を見下ろす。会うたびに凄味を増し雄々しくなっていく兄だけれど、寝顔だけは昔から変わらない。
無防備で、あどけなくて。
しかしその顔を見るのはいつ以来だろう。
食事、睡眠、トレーニング、日常生活のすべてで自分を律して生きているからこそ兄は兄たるのだけれど、そこに如何程の精神力が必要なのか、想像するに余りある。自分を律し続ける。そのことが如何に難しいことなのか、高校生まで生きていれば、誰しもがわかる。
そんな兄が、こうして帰り、寛げる場所。
「⋯⋯安心できるよね」
家や家族の大きさを実感していた、その時だった。何の前触れもなく兄の瞼が勢いよくぱちっと開き、わたしは思わず声を上げる。
「わっ、びっくりした、すごい急に起きる」
「⋯⋯名前⋯⋯おかえり」
「ふふ、うん、ただいま」
寝惚けた眼差しでわたしを見る兄が何だか可愛くて、思わず笑む。開眼の勢いこそよかったものの、その後は眠そうにぽやぽやと瞬きを繰り返している。
「ごめんね、起こしちゃったね」
「いや⋯⋯何か帰ってきた気したんだよね」
「ふふ、こんなところで無駄な第六感消費しないで、もったいない。寝たばっかりだったんだよね、もう少し寝る?」
「いや、起きる。名前待ってただけだし」
相変わらずのことを言いながら伸びをして、兄はその身を軽く起こす。わたしもソファの正面に回り、隣に腰を下ろして「お兄ちゃんにもお土産たくさんだよー」なんて暢気にお土産を広げ始めたところで、兄はこう口にした。
「ねぇ名前」
「ん?」
「アイツ⋯⋯一也どうするって?」
「? 何が?」
「プロ志望。出すの」
「⋯⋯⋯⋯は」
片手に持っていたお土産が、とさりと落ちる。ソファの端を掠めてフローリングに落ちたそれを、兄は無言で拾い上げ、ソファ前にあるローテーブルに置いた。そんな兄を凝視し、わたしは言葉を失う。
──プロ、志望。
兄の口から出た単語が、頭の中に反響する。
一也くんが引退してしまう事実を受け止めるのが精一杯だった。その先のことなんてとても。──いや、考えないようにしていただけだ。意図的に、意識の外に追いやっていた。変わってしまうのが怖くて。失くしてしまうのが怖くて。
でもそれもここまで。いよいよ目を背けてはいられないところに、わたしたちは立っている。
こくりと喉元が動く。何か返事をしなければと開いた唇。しかしそこから言葉が出ることはない。そんなわたしを横目で見遣って、兄は言う。さらっとした、世間話と同じ口調だった。
「俺は出すよ」
「⋯⋯プロ、に」
「そう」
「──うん、そうだよね」
その手に日本一だって掴めたであろう投手。既にいくつもの球団から声も掛かっているのであろう。兄がいつから決めていたのかは知らない。けれど。
一也くんがそうであるように。
兄も、野球と生きる人なのだ。
そんなこと、ずっとずっと前からわかっている。きっと兄が野球に出逢った瞬間に、その未来は決まっていた。いよいよその時がきただけだ。
純粋に自分が望むように、“野球だけ”を。
そんな、限られた時の終わり。
この先はどうしたって、プロとしての何たるかが纏わり付くようになる。野球で生きていくということは、そういうことだ。
それでも、成宮鳴は。
「未来はさ、無限なんだ。どこまでも行ってやるさ」
静かに握られた兄の左拳。掴まれた何か。そこに詰まった未来のようなものに、わたしは、言葉にならない兄の覚悟を見た。
◇
短い発信音だった。
「名前?」
「⋯⋯一也くん、電話出るの早いね」
「ちょうど連絡しようと思ってたとこだったから。ちゃんと家着いたか?」
「うん」
「よかった。昨日みたいにぼーっとして変なとこ辿り着くんじゃねぇかと思ったぜ」
「あはっ」
「あは、じゃねぇのよ」
電話口で軽く笑い声を転がしてから、一也くんは問う。
「んで? どした?」
「その⋯⋯一也くん」
「?」
「昨日は全然聞けなかったんだけど⋯⋯その、進路って⋯⋯」
「──ああ」
今彼はどこにいるのか。
彼の声以外の音は聞こえない。ただ、静かで落ち着いた彼の声だけが、答える。
「俺も近々話そうと思ってたんだ」
ヒュッ、と細い息の音。それが自分の喉から出たものだと認識できるまで、随分と時間がかかったように思う。
「するか。これからの、未来の話」
一也くんが、そう呟いた。