23.謡のように


 電話でする話でもねぇしな、と言ってくれた一也くんの提案で、新主将金丸くんのもと始まった記念すべき第一回の練習が終了してから、わたしの寮の部屋で話すことになった。

 この部屋に来るといつもベッドで寛ぐ彼が、今日は床に胡座をかき真剣な目をしている。「まずは俺の進路だな」そう前置きして、彼はやおら口を開く。
 

「出すぜ、プロ志望」
「──うん」


 彼の隣に腰を下ろし膝を抱えていたわたしは、その眼差しを見つめ返して、頷く。予想はしていた。十中八九そうだと思っていた。けれど彼の口からそれを聞いたとき、自分からどんな表情が出るのか、それがわからなかった。

 でも、よかった。

 今のわたしは、誇らしく嬉しい気持ちに満ちている。穏やかな表情で彼の話を聞くことができて、本当によかった。
 

「俺は、野球で生きていけるようになりたい。最短で。自分の力で」

 
 隣にいるのは、わたしよりたった一年を多く生きているだけの、同じ高校生。けれど経験してきたものが違う。乗り越えてきたものが違う。一体どれ程の苦楽を越え自分と向き合ってきたら、人生の大きな決断を、この歳でひとりで。
 
 しかし、同じだよ、と彼は言う。
 
 高校を卒業する時には誰しもが否が応でも何かしらの道を選ぶ。それが彼には野球だったというだけで、野球しかなかったというだけで、特別な事でも何でもないと。

 そこに至るまでの道程も、それを選び取る覚悟も、決して常人のそれではないというのにだ。謙遜しているわけではなく、心の底からそう思っているのであろう彼は、静かな眼差しでわたしに問う。

 
「⋯⋯なぁ名前。お前は、どうしたい?」
「それは⋯⋯わたしだけの話? それとも、わたしと一也くんの話⋯⋯?」


 怖いなと、そう思う。

 数秒後には、彼の口から別れ話が飛び出してくるかもしれないのだ。同じ学校、同じ部活で一緒に過ごせていた時とはもう違う。彼は社会人として。わたしはまだ、高校生として。それぞれ別の場所で生きていくことになる。例えどんなに想い合っていたとしても、“それでも別れる”という選択肢は十分選ばれ得るのだ。

 膝を抱える腕にぎゅっと力を込めていた。それに気付いたのか、彼はわたしの手を解して、軽く握り込む。

 
「俺とお前の話。まぁけど、こんな大事な話に自分の意見言わねぇで先に聞くなんて質悪りぃよな。先に俺の気持ち言っとくわ」
「⋯⋯一也くん」
「俺なりに、だけどさ。色んなパターン考えた。それこそ夜も寝れねぇくらいな。結論、どんな状況になったとしても、俺には⋯⋯お前といる未来しか描けねぇみてぇだわ。例えどんなに会えなくても、それでも俺は⋯⋯ずっと名前といたい」
「⋯⋯っ」


 どくり。身構えていた心臓が強く跳ねる。そのままどっ、どっ、と痛いくらいに拍動して、身体中に血液が回る。身体の芯は火照っているのに、手先が酷く冷たい。それ程緊張していたのだ。張り詰めていたものが緩み、無意識に「よかった⋯⋯」と呟いていた。それから次は自分の番だと思い出し、唇を開く。


「わたしは⋯⋯わたしはね、考えてるよ、昨日から。一也くんがいない未来を」
「──!」


 刹那、彼の横顔が強張る。
 冷えているくせにほんのりと汗をかいてしまった手のひらで、宥めるように彼の手を撫でる。

 わたしも同じだ。一也くんと一緒にいる未来しか描けない。ずっと一緒に。そのことだけを切望している。わたしの気持ちは昔も今も変わらない。だから一也くんが望んでくれさえすれば、永遠に叶い続けるのだ。

 けれど、未来はわからない。

 彼が生きるのは一秒先さえ保証されない世界だ。環境が変われば、彼の中身も変わる。煩わしさ。足枷。重荷。心変わり。彼の中でわたしの存在がどう変貌するか、それは彼にだってわからない。
 

「そんな未来来なきゃいいって思うけど、でも、考えてる。わたしと一也くんが⋯⋯別れることになったら、どうなるのかなって。お互いからお互いがいなくなったらって⋯⋯そしたらね、一也くんには野球が残るでしょ。⋯⋯いや、ごめん、残るって表現はまったく正しくないね。そんな重みのものじゃないのに」
「いーよ、言いたいことは分かるから。続けて」


 静かな彼の声に頷いて、わたしは躓きながらも心を放っていく。昨日から──もしかしたらずっと前からどこかでは──考えていたことを。

 
「一也くんには、どうなったって野球がある。例え怪我をしたって、戦績が振るわなくたって、プロじゃなくなったって、野球は一也くんからは離れない。でも、じゃあ、わたしには⋯⋯? 一也くんがいなくなったわたしには、何が残るのかなって」


 瞼を閉ざし、もう一度考えてみる。彼がいなくなった世界で生きる、自分のことを。 

 
「何も残らないの。ただ抜け殻になったわたしだけ。もう何年も一也くんを追いかけて、それを糧みたいにしてたから⋯⋯一也くんがいない世界では、わたしはただの抜け殻。そしてそんなふうになる自分に、わたしはきっと絶望する。⋯⋯まぁ、このことを思い知った時点で結構絶望してるんだけどね。一也くんがいなければ自分の人生さえ儘ならないような人間なんだって。わたしって、自分でしたいこととか、なりたいものとか、明確にないんだなぁって」


 最初の出逢いは、わたしが小学校六年生の時だった。それからずっと。もう五年も経つらしい。いつの間にか知らず知らず、入学する高校さえ“一也くんがいる”という理由で選ぶほど、わたしは彼に寄り掛かり過ぎてしまった。
 

「だから、探すの。わたしが進路を決めなきゃいけない時までに、探す。わたし自身が興味を持てて、例え一也くんが隣にいなくても、生きる理由なり目標なりにできるようなことを」


 彼が足を踏み入れる並々ならぬ世界。そこで生きていく彼に、ほんの僅かでも見合えるように。到底及ぶことはないけれど、それでも「わたしも自分を生きてるよ」と言えるように。

 でなければいつか、自分自身への劣等感と、いずれ現れるかもしれないライバル──例えば女子アナと野球選手なんてよく聞く話だし──の存在に、自尊心を保てない。不安などいくらでも、際限なく抱けるのだから。自立するしかないのだ。“自分”という、確固として揺るがないものを自信にできるように。
 

「こんなわたしだけど、それでも一也くんが望んでくれるならわたしは⋯⋯わたしも、ずっと⋯⋯ずっと、一也くんといたい⋯⋯っ」


 想いひとつ。
 今のわたしたちが持っているのは、それだけだ。他には何もない。けれど。それだけを信じて、進んでいきたいのだ。

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