23.謡のように


 感極まってしまい涙ぐむわたしの手を、彼が優しく撫でる。
  

「お前はさ、深刻に考え過ぎ。前にも言ったけど、俺にとって名前は、存在こそが力なんだよ。⋯⋯つっても、それじゃお前がお前自身に納得出来ないんだろうけど」
「ふふ、さすが、よくわかってる」 
「うん。でも、だからさ、そんな思い詰めなくたっていーんだぜ。許されるなら、お前が高校卒業したらすぐにだって⋯⋯」


 何事かを言いかけたままこちらの様子を伺うような視線を寄越す彼を、わたしは目を丸くして見つめ返す。長い沈黙のあと、漸く出た言葉が「⋯⋯⋯⋯え?」だった。

 
「? 何だよその顔」
「え⋯⋯だって、それって⋯⋯どういう⋯⋯」 
「お前が考えてるので合ってるよ。どーせ一緒にいるんだったら、あれこれ変な不安抱えて生きていく期間は短いほうがいいだろ、人生に於いて。だったら俺は、少しでもお前と過ごせる時間が多い未来を選びたい」
「⋯⋯っ」


 より一層目を見開いて。呼吸を本気で忘れる。それは、つまり。そういうことを言ってくれているということで。
 
 だって、こんなの。
 まるでプロポーズではないか。

 先程とは打って変わって頬を真赤に染め、唇だけをぱくぱくと動かすわたしに笑ってから、彼はその双眸に真剣な光を宿す。


「けど、今のままじゃ餓鬼の戯言に過ぎねぇからな。だから俺は、お前が高校卒業して頑張ってる間に、行けるとこの限界以上に上り詰める。誰も文句なんか言えねぇ環境を用意しておく。実力も、金も。お前と、お前の家族が一切の不安を抱かないような、そんな俺になっておく」


 重ねていない方の手で、彼は空を掴む。手背の血管が浮き出る。その手が強く握り込まれたからだ。

 彼は、言うのだ。
 
 今のままでは、求められないと。
 周囲を黙らせる実力。不自由させない財力。不安を抱かせない生活態度プライベート。どうしたって会えない時間が多くなる生活をさせてしまうのだから、せめてそれ以外では、何一つとして懸念が残らないように。それが出来ないようでは、野球で生きていくとは言えない。

 名前がいなきゃ、意味がない、と。

 そこまで言い切って、彼は、わたしの身体を強く抱き締めた。身体も心も、苦しくて。わたしは涙が止まらなかった。

 わたしたちは今、自分が持ち得る限りの想像力で未来を描き、持ち得る限りの強い意思で未来を誓い合っている。けれど例えそれがどんなに現実的で、どんなに強靭なものだとしても、それでも大人からすれば、現実を知らない子どもの絵空事と言われてしまうのだろう。

 ──いずれ大人になればわかる。

 そんな台詞で、あしらわれたりして。
 けれどわたしたちはわたしたちの今に、懸命なのだ。理解はできても、納得はできない。──いや、結局、誰にも言われてもいない台詞が頭を過るのみならず、それに反発までしている時点で、自らの幼さを認識しているということでもあるのだろうけれど。

 
「お前はただ慎重に、この先の俺を見極めて、そして決めればいい。お前に⋯⋯こんなに俺を見てきてくれたお前に見切られるんなら、俺も受け入れられるから。ただ、俺の気持ちは何があっても揺るがねぇ。それだけは、覚えといてくれ」
「⋯⋯一也くん」 
「あ、言っとくけど、名前だけじゃないからな。俺だって不安にくらい思うぜ。なんせお前はこの先、俺の知らない世界で、俺の知らない男達⋯⋯しかもお前の日常に俺より近いヤツらと過ごすことになるんだから。考えるだけで腹立つっつーの。どーせお前のことだから、結婚でもしなきゃ誰にも言わねぇだろ、俺の存在」
「⋯⋯ふふ、そりゃあそうだよ」

 
 プロ野球選手と付き合っています、だなんて。承認欲求や自己顕示欲を満たしたいとか、有名になりたいとか、そんな理由以外で声高々に言える人物が日本に一体どれだけいるだろう。というか、「どーせ」なんて言われても。わたしは詳しくないけれど、そもそも球団の方から色々言われるのではないだろうか。ファンを抱えるような職業人の恋愛は、ファンにバレないように。というのが鉄則だと思っていたし、だからこそ週刊誌が賑わったりするわけで。

 しかし裏を返せば、それ程彼も、わたしを想ってくれているということなのだろう。そのことが嬉しくて、思わず笑みが溢れる。


「一也くんはお忘れですか? わたしの筋金入りの御幸一也愛を」
「嫌ってほど身に沁みてるよ。それでも不安にはなるんだっつーの」
「ふふ」


 抱き締められたまま、こてりと頭を預ける。
 今後数年は、互いに研鑽と辛抱の期間になるのだろう。その先にどんな結末が待っているのか。それはわからない。わからないけれど。これがわたしたちの選んだ道なのだ。

 ゆっくりと更けていく夜。気が済むまで抱き締め合いながら、わたしたちはこの日、まだ見ぬ未来に少しの色を付けてみた。
 
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