06.涙の降る音


 よくもまあこんな作り話をでっち上げるものだ。呆れを通り越して感心してしまう。恐らくこいつは、室内練習場に俺がいたことも失念しているのだろう。


「一也くんは? なんで部屋戻ってきたの?」
「俺は忘れもん。新しいタオル」
「ふうん」
「どうだ、立てるか?」
「⋯⋯微、妙?」


 一向に立ち上がろうとしない名前の腕を掴み、ひょいと立ち上がらせる。細くて柔い腕だ。つい先刻、俺の胸倉を掴んだ腕とは全然違う。その感触に、俺のほうが安堵する。
       
 腕を支えたまま、部屋の戸を開ける。


「入れよ、本貸すから。テーピングも巻き直したほういいだろ」
「えっ、いや、わたしはここで」
「変な意地張ったらまた担ぐぞ」
「⋯⋯⋯⋯はい、お邪魔します」


 ぴょこぴょこ跛を引く名前に手を貸し、室内に招く。テーピングテープが仕舞ってある棚へ向かう途中で手を離し、声をかけた。


「そこらへん適当に⋯⋯ってもう座ってんのね」
「あはっ」


 一目散に床にぺたんと座った名前を見て、結構痛むのか、と思う。冷やす氷も出してやらねえと。


「先にアイスだな。テープはそのあと出すから、ちょい待ち」
「うん。ありがとう」


 なんかいつもより大人しくねえか、こいつ。

 どこがとか。何がとか。はっきりと表現はできないが、なんとなく元気がない。

 物珍しそうに部屋の中を見回している名前を見て、無理はないか、と思う。あの言われ方は、性格の悪さに定評のある俺からしても、酷いと感じるものだった。

 こいつの指摘は的確だったし、通常であれば素直に聞き入れられたはずだった。ただ、ぎりぎりで保たれていた心を、こいつの言葉が悪撫でしてしまっただけだ。

 名前は悪くない。

 しかし今回のことがあると、今後こいつは、俺たちに何も言えなくなるかもしれない。恐怖はいとも容易く心の奥に根付き、ふとした拍子に顔を覗かせ、足を竦ませる。

 こいつは、選手やプレーの微細な変化、些細な違和感を感じ取れる。それは、今までこいつと過ごした──話してきた、と言ったほうが正しいかもしれないが──月日の中で、俺が確かに実感していることだった。間違いなく俺たちの力になる。

 そう伝えたいのだが、それはこいつが、先程のことを俺に話すと決めてからだ。そうでなければ、一方的な価値観の押し付け、或いはただのエゴになってしまう。

 氷嚢を渡してからテープの入った箱を取りに行き、名前の傍に片膝をつく。真意を探るように、その双眸を覗いた。


「名前、お前⋯⋯大丈夫か?」
「ん?」
「何かあったんじゃねぇの」
「強いて言うならゴキさんに会った」
「バカ、違ぇよ」
「あいたっ」


 つん、と眉間を小突く。

 ⋯⋯俺には言わねえ、か。

 いや、きっと誰にも言わないのだろう。同期のマネージャーにも言わない。鳴にも言わない。誰にも言わず、ぎゅっと抱え込む。

 昔から、こういうところは頑固だった。
 
 この状態になってしまった名前を、どうしたらほぐせるのか。俺は知らない。優しく慰めるなんてキャラでもないし。

 別にそれで困ったことなどなかった。野球が出来ればよかった。しかし今、何故だかそれを、初めて恨めしく思っている。

 にこにこと首を傾げる名前。

 気が付くと、俺は。

 その柔そうな頬に、──そっと触れていた。


「⋯⋯ひとりで抱え過ぎんなよ、名前」

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