わたしは瞠目した。
恐らく彼は、あの場にいたのだ。わたしの軽率さが生み出してしまった亀裂を見ていた。恥ずかしい。情けない。
いつものように揶揄ってくれればいいのに。お前もバカだなあって。呆れたように笑って。なのになぜ。
こんなに優しいのだろう。
このままでは、頬に触れる彼の体温が沁みてしまう。弱ったこころに、沁みてしまう。沁み渡ってしまえば、わたしはきっと彼に縋ってしまう。
──ひとりで抱え過ぎんなよ。
彼の呟いた言葉が木霊する。
普段よりも幾分優しい声音だった。その声音に、心底安堵してしまった自分がいる。彼の声で鼓膜を満たして、こびりついてしまったあの怒気を孕んだ声をかき消してほしい。そう思ってしまった。
泣いてしまいそうで、目元を髪で隠すように俯き、彼の名を呼ぶ。
「⋯⋯一也くん。ほっぺ」
彼ははっとしたように手を離した。
「⋯⋯悪りぃ、びっくりしたか? 睫毛付いててよ」
「なんと⋯⋯それはお恥ずかしいところをありがとう」
睫毛が本当についていたのか、別の意図があっての言い訳なのか、彼の表情からは読み取ることができない。
というか彼は、わたしに触れることのリスクをわかっているのだろうか。
わたしはあなたに恋してるんです。こんなふうに触れられたら恋慕はより大きくなるし、わかってはいても、それでもどこかで期待をしてしまう。
わたしの気持ちには、もう随分と前から気付いているだろうに。野球だと物凄い読みを発揮するのに、こういうところは不用心だ。
そんなことを思いながら、彼が持ってきてくれたテープの箱を開ける。
「あ、名前。それ、俺にも教えて。クリス先輩直伝のテーピング」
「うん」
彼はわたしの真横に移動し、胡座をかいて覗き込んでくる。まずはね、と彼の顔を見て説明しようとして、わたしは息を呑んだ。
ち、近⋯⋯ちっか⋯⋯!
口から飛び出そうになった台詞を、慌てて口内にむぎゅと押し込む。その弾み──何の弾みかは自分でもわからないけれど──で、肩がとん、と触れ合った。
一也くん、わたしね。たった今、一也くんはわたしに触れることのリスクをわかってるのかなって心配をしてたの。それなのにまったく! 近い!
内心で毒づいた。
「ここがポイントです! 踵を回すときに、こうして、こう!」
半ばヤケだった。
密室にふたりきり。とびきり近距離に彼がいて、たまに肩が触れ合い、彼の息遣いまでが伝わってくる。頬はすでに茹で上がり、心臓はとうにトップスピードを更新していた。
ヤケにならずになどいられなかった。
彼はといえば、こんなわたしの葛藤など露知らず。暢気にクリス先輩のテーピング技術を学んでいる。
「ほー、なるほど。ここでこうすんのか」
「そんでこうして、はい完成! なんと一人で歩けるようになります!」
すっくと立ち上がってみせる。それを見た彼は「へぇ、たいしたもんだな」と感心していた。
「やっぱ凄えよな、あの人」
「⋯⋯肩の調子、どうなんだろうね」
「大分良いとは聞いたけど。もうすぐ⋯⋯あと一ヶ月くらいか? それっぽっちでレギュラーが決まるからな⋯⋯」
夏が近付いている。
甲子園をかけた戦いの始まりであり、それは同時に、レギュラーになれない三年生の夏の終わりでもある。
負けたくないな、と思う。
先輩にはああ言われてしまったけれど、わたしにできることがあるのなら、それを賭したい。力になりたい。あの言葉に負けたくない。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね」
「ああ、俺も素振りしに行くわ」
──ほら、やっぱり。
タオルを持たずに部屋を出た。忘れたタオルを取りに来たと言っていたのに。
「一也くんは優しいね」
「またそれ言う。お前くらいだぞ、そんな物好き。優しさに飢え過ぎなんじゃねぇの?」
「? わたしいつ言ったっけ?」
「冬の最後の電話んとき」
──ああ。
僅かに開いた唇の隙間から、極々微かな吐息が落ちる。
あの朝は、わたしにとって特別だ。
美しい冬の朝。今でも鮮明にあの光景が蘇る。電話の向こう、見えぬはずの彼の声ひと粒ひと粒が、きらきらと残っている。
そうだ、あの日も。
「⋯⋯たしかに、言った」
すっかり沈んだ太陽。夜空に夕陽の面影はまったくない。一番星だけが、たったひとつ瞬いている。
「もう走ったりすんじゃねえぞ。気ぃつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。また明日ね」
へこたれんなよ、名前。
遠ざかっていく背中に、そんなふうに言われた気がした。