02.あなたというひと


 わたしが彼に出会ったのは、小学生のとき。兄の練習試合を観に行った、真夏のことだった。わたしは六年生で、兄は中学一年生で。
 
 ということは当時、彼も中学一年生だ。

 その時の情景は、細部までありありと覚えている。

 真っ白な入道雲。空遠くに雄々しく浮かぶ。灼熱の太陽。それが一瞬遮られたのは、名も知らぬ鳥が横切ったからだった。もわんと吹く熱風。グラウンドの土煙。外野で揺れる青々とした草。

 見慣れたその風景のなかに。

 パァン!

 ミットがボールを捕える音が響いた。
 その瞬間、電流が駆け抜けたように身体の真ん中がびりびりと痺れる感覚がした。こんなふうに直接身体に響く捕球音は、聞いたことがなかった。

 音の出どころはすぐに見つかった。兄の対戦相手のキャッチャーだった。


「⋯⋯⋯⋯綺麗」


 息を呑み、思わず呟いていた。
 まるでボールが望んでその場所へおさまったかのように捕る人だな、と思った。見惚れてしまった。彼の一挙一動から目が離せなかった。

 ゆらり。彼の姿が揺れる。
 熱気に。熱量に。わたしの視線に。彼の姿が、陽炎のように揺らめく。

 兄を応援に来たはずが、気付けば彼ばかりを見ている自分がいた。兄がマウンドに立っていても、彼を追ってしまう。塁に出ても。ベンチに下がっても。試合の行く末などそっちのけで、彼ばかりを。

 こんなことは初めてだった。
 いつもはしつこいくらいに兄の姿を追って、大きな声援を送って、兄とともに一喜一憂していたのに。

 きっと最初は、憧れに近い心情だったのだと思う。こんな選手がいるんだ、という、尊敬や憧憬に近いもの。

 何度目かの打順が彼に回った時だった。彼が振ったバッドが、カキィィンと空を突く鮮やかな音を放った。


「わあ⋯⋯ランニングホームランになりそう」


 白球が悠々と空を駆ける。

 ほう、と感嘆の息が漏れた。

 キャッチャーとしてだけでなく、バッターとしても光るものがある。まだ出来あがっていない肉体で。しかし確かな力を秘めている。見ている者にそう思わせるに十分なプレーだった。

 彼と、一塁に出ていた選手が塁を蹴る。ホームへの送球は間に合いそうになかった。二人がホームベースを踏んだところで、彼のチームメイトが歓声を上げながらわらわらとベンチから出てきた。

 これは、つまり。
 サヨナラランニングホームランだ。

 このとき初めて得点板を見た。一点差だ。マウンドには兄の姿。慌てて状況を整理したわたしは、思わず呟いてしまった。


「⋯⋯やばい」


 兄のチームが負けてしまったこともそうだけれど、それよりも。兄の投げたボールが打たれて、しかもそれが決定打になってしまったことが、大大大問題だ。

 兄の負けず嫌いは筋金入りの天下一品である。中学一年ながらもシニアでレギュラーを勝ち取る実力に、加えて自信も満々ときている。

 そんな兄が、サヨナラを打たれたのだ。

 わたしは一瞬で覚悟を決めた。

 大荒れ警報緊急発令。危険です。皆様速やかに避難してください。そんな警告が脳内を駆ける。

 その直後だった。


「っあーーーーーーもう!」


 兄、成宮鳴の声が響いた。
 それはもう大声が響いた。

 離れた場所で応援していた父母らのところまで、「みんながもっと得点取ってくんないから!」だなんて、自分勝手も甚だしい負け惜しみがしっかりと聞こえた。しかしこんなものは毎度のことなので、父母は皆菩薩のようなあたたかな笑みを湛えていた。

 その顔触れに、わたしは慌てて頭を下げた。

 お兄ちゃんがいつもごめんなさい。で、わたしはそんなお兄ちゃんを宥めに行きます。行ってきます皆々様方。

 そう敬礼して、走り出す。

Contents Top