06.涙の降る音


 その日は一歩ずつ、しかし着実に近づいてきた。

 百人近い部員を抱える青道。その中で背番号を手にするのは、ほんの二十人。現在一軍は十八人、あとの二人を二軍から選出することとなる。二軍の選手が自身をアピールする絶好の機会となる練習試合。二軍にとっての最後の練習試合が、今まさに目の前で行われていた。

 のだけれど。

 先発の沢村くんの投球をみて、わたしは口をぽかんと開けていた。

 な、何なんだろう、この新しいフォーム。
 窮屈そうにみえるけれど球威は落ちていないし、いや、むしろ上がっているかもしれない。左腕が⋯⋯凄く遅れて振り下ろされている、のか。

 真正面から対峙すると、その球はどんなふうに見えるのだろう。

 わたしが沢村くんの関節を「変」と表現したとき、一也くんが「柔い」と訂正したことを思い出す。そうか。柔軟な肩。それがこのフォームを可能にしているのか。

 まだ彼のものになっていないフォームから放たれる球は、荒れまくっていた。捕手の小野先輩はその球をなかなか捕らえられない。

 沢村くんからは、気迫が漂っている。それはきっと、クリス先輩に対するものだ。バッテリーを組み始めたときこそ険悪だったものの、今では尊敬すべき師として仰いでいる。

 師が引退するその前に。成長した姿をみせるべく、彼は必死に練習を重ねていた。途中からは一軍への昇格などすっかり忘れた様子で、クリス先輩の背中を追いかけていた。

 その気迫が、漂っている。

 それなのにストライクが一向に決まらず、どんどん走者が溜まっていくものだから、味方ですら動揺してしまっている。

 堪らずタイムを取る小野先輩。内野手がマウンドに集まる。

 これまでの沢村くんの努力をみてきた。今まさに、新たな武器を手にしようとしている。もう少しでいい。このまま投げさせてあげてほしい。

 私情をたっぷり挟んだ上でそう思ったところで、ベンチから片岡監督が出てきた。片手を上げ、選手交代の旨を告げる。ベンチを除きその場にいた誰もが、投手交代か、と思ったに違いない。

 だからプロテクターを纏ったクリス先輩の姿に、皆驚きを隠せなかった。


「キャッチャー小野に代わり──滝川!!」


 それを聞いた途端、わたしは駆け出していた。一緒にみていた春乃ちゃんが驚いたように訊ねてくる。


「えっ? 名前ちゃん? どこ行くの?」
「あっ、一軍のところ! すぐ戻るね!」


 急ぐあまり、その場を離れる断りを入れるのを忘れてしまった。クリス先輩が試合に出ることを、一刻も早く教えたかった。

 ──一也くん。クリス先輩が試合に出るよ。

 思い出す。一年前の夏。クリス先輩の肩の故障と、至極残念そうな一也くんの声。

 すっかり治った足で走りながら、同時に安堵していた。よかった。クリス先輩ならきっと、沢村くんの球を受け止めてくれる。無死満塁というこの状況を、ひっくり返してくれる。

 そして何より。

 よかったね、沢村くん。クリス先輩と一緒に──試合が出来て。

 トレーニングルームでウエイトをしていた一軍の皆さんのところへ辿り着く。入り口のところで声をかけた。


「一也くん! 先輩方! ぜーぜー、ごほっ」
「? どうした?」
「あの、げほっ、ぜーぜー」
「いや、どんだけ走って来たんだよ」
「ちょ、っと運動不足⋯⋯じゃなくて、二軍の試合にクリス先輩が」


 出ています。
 と言い終わる前に、わたしの横をびゅんと何かが通った。何かと言うか、一也くんが通った。素晴らしい反応速度、並びに素晴らしい瞬発力である。


「速⋯⋯」


 そんな呟きが自然と落ちる。呆気に取られ、その姿をぽかんと見ていると、走ったまま振り返った彼がわたしを呼んだ。


「早く来いよ、置いてくぞ!」
「もう置いてってるよ⋯⋯」


 そんな彼の姿はもう遥か彼方である。
 日頃の運動不足が祟り、復路を走ることが出来なさそうであるわたしは、息を整えながら歩いて追いかけることとした。

 後から出てきた先輩たちが、ひとりふたりと追いついてくる。


「苗字、お前運動不足過ぎんだろ。何だぁあの息切れ」


 伊佐敷先輩は呆れ顔である。


「ふふ、バレちゃいました」
「名前ちゃんも夏に向けて沢村たちと一緒にタイヤ引いたらいんじゃねぇの、ヒャハハ!」
「あはっ、すっごく嫌です、というか無理です。一輪車のタイヤくらいじゃないと」
「⋯⋯俺たちはいつでもいいよ、タイヤはいっぱいあるし」
「降谷くんそれ冗談? 本気?」


 なんとも表情の読みにくい同級生である。
 
 そうこうしているうちにグラウンドへ戻ってくる。クリス先輩が入ってから試合の流れは大きく変わり、あの無死満塁の危機を乗り切ったばかりか、得点を重ねていく。

 三回表に入ったところで、黒士館の打線に変化が見られた。皆バントを仕掛けてくるようになったのである。


「⋯⋯一也くん」
「ん?」
「クリス先輩の肩⋯⋯大丈夫かな。こんなに牽制投げさせられて」
「⋯⋯⋯⋯」


 この沈黙をどう捉えるべきか。あぐねている時だ。一塁走者が盗塁を仕掛けた。沢村くんの球を捕球し、そのまま二塁目掛けて投げられた球はしかし、二塁手前でワンバウンドする。

 以前のクリス先輩であれば、考え難い送球である。青道サイドの皆の顔つきが、それを物語っていた。やはり、肩が。そこを狙われている。

 そんな窮地を救ったのは、沢村くんだった。持ち前の明るさや前向きさでチームを鼓舞し──煽ったとも言うかもしれない──、クリス先輩をも唸らせるピッチングをした。

 最後の最後で旧式フォームと右手のカベを合わせたような独特のフォームを生み出し、三回を終え被安打ゼロ、無失点という結果を叩き出した。


「沢村くんて⋯⋯変なの」
「はははっ、ホント奇想天外だよな。鳴の投球ばっか見てたお前からしたら、余計そう感じるだろ」


 兄の野球と。一也くんの野球。
 それがわたしにとっての野球の礎となっている。なんて贅沢なプレーを散々みてきたのだろうと、野球を深く学び始めてから幾度思ったかわからない。

 もともと三回までの登板予定だった沢村くんと、肩への影響が隠しきれないクリス先輩が、三回表終了とともに交代する。

 結果的に三点差で青道が勝利を収め、二軍最後の練習試合は終了した。

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