六月の二週目に差しかかった日。「地獄の夏直前合宿」と呼ばれる一週間の合宿が幕を開けた。練習をするのは一軍メンバー二十人がメインで、それ以外の部員はサポートに回るという徹底ぶりである。昨年、この合宿の様子を一也くんから聞いていた限りでは、本当に地獄のような合宿なのだ。
初日の前半ではまだ表情に余裕のある、一軍の一年生三人。彼らの数日後の姿を案じ、おにぎりを握る手に力を込めた。
「貴子先輩、こっちは梅干しでいいですか?」
「うん。どんどん作ってね。一人二、三個食べるとしてもすごい数だから」
二百個⋯⋯いや三百個?
その途方もない数に、握った個数を数えるのを止めた。
おにぎりは不思議だ。
中身に少し何かを入れて、お米を握って、塩を振って海苔で巻くだけ。それだけなのに、疲れた身体に染み渡る。少しでも彼らのエネルギーになればと、懸命に握った。
大量のお茶とバナナも用意し、休憩時間に入る。早速沢村くんが賑やかに寄ってきた。
「こ⋯⋯これ全部マネさんたちが作ったんすか? すげえ〜〜〜」
美味しそうにぱくぱく食べてくれる皆の様子を嬉しく思いながら見守る。
足りない選手へ追加で配るため、おにぎりを小皿に移して選手の間を回っていると、一也くんがわたしを呼んだ。
「名前、俺にもちょーだい」
「うん、何味がいい? 多分これが梅? で、こっちが昆布⋯⋯?」
「超疑問形なんだけど」
「ふふっ、ごめん、わかんなくなっちゃった」
「いいよ、何でも」
彼は最も手近なおにぎりを手に取り、ガブッと大きく齧りついた。
「ちなみにどれかひとつはたっぷりわさび入りのハズレだから気をつけてね」
「っぶ!!」
「あはっ、嘘だよ、合宿なのにそんなことするわけないじゃん」
「お前な⋯⋯」
ジトっとした目つきで見られたので、笑って肩を竦めてみせる。自分の作ったものを食べてもらえるというのは、どこか少し擽ったい。
「そういやお前らは泊まんの? 俺らは通いのヤツらも寮に泊まるけど」
「ううん、わたしたちは帰るよ。授業もあるし」
「そーなんだ。じゃあさ、ちょっと頼まれごとしてくんない?」
彼が頼みごととは珍しい。
他人に頼ったり、自分の弱さを見せたり、そういうことを嫌う人だ。野球をしている彼は、いつだって飄々としている。
「なあに?」
「マニキュア、買ってきてほしいんだけど」
「マニ、キュア⋯⋯⋯⋯? あ、降谷くん用か」
「オイ、今の間で変な想像しただろ」
「てっきり一也くんが使うものかと⋯⋯ふふ、何色にしようかななんて考えちゃった」
「⋯⋯頼むから透明にしてやれよ」
先日、投球中に爪を負傷してしまった降谷くん。そのせいでしばらく二軍グラウンドで走らされていたことは記憶に新しい。
あの豪速球だ。指先にかかる負担は計り知れない。あの球を投げる限り、爪のトラブルとは今後も長く付き合っていかなければならず、日頃のケアが大切になる。
一也くんは、投手のそういう細やかなことまで本当にしっかり見ている。女房役というぴったりな言葉は、一体誰が考えたのだろう。
「明日までに買ってくるね」
「サンキュ」
うん、と頷きその場を立ち去る。他におにぎりを求めている選手がいないか、探しに行こうと思ったからだ。
しかし数歩歩いたところで、背後から一也くんの声が飛んできた。
「あ、名前! 合宿中は普段より帰るの遅くなるだろうし、気ぃつけろよ」
「⋯⋯うん」
たまにみせるこういう不意の優しさがずるい。本当にずるい。女の子として扱われているような気になってしまう。
自惚れるな、と。
首をぶんぶん横に振って邪念を吹き飛ばした。