その翌日のことである。
「⋯⋯あの、苗字さん」
「ん?」
「これの塗り方教えてほしいんだけど⋯⋯」
午後の練習の準備をしていると、降谷くんが控え目に話しかけてきた。手には今朝、一也くんに渡したマニキュアが握られている。
「もちろん。塗るのはじめて?」
こくんと素直に頷く彼。なんだか微笑ましい。大きなわんちゃんのようだ。
こっちでやろう、と彼をベンチに座らせる。わたしは向かい合うような形で足元にしゃがんだ。彼の膝の上にわたしの手を置かせてもらい、その上に彼の右手を乗せる。大きく、すらっとした手だ。
「慣れたらすぐできるようになるよ。一応全部の指に塗るね」
「うん」
彼の視線を感じながら、爪に透明なマニキュアを塗っていく。ぷくりと盛り上がった刷毛が、爪の上を滑る。
暫くお互い無言で、爪がコーティングされていく様を見る。気付けば真剣に塗っていた。だから、近付いてきた人物に気付かなかった。
「なんだ降谷、塗ってもらってんのか」
「あ⋯⋯御幸先輩」
予想外の光景だったのか、目をぱちぱちと瞬かせた彼がそこに立っていた。
「塗り方分かんなかったならそう言えよ、俺がやってやったのに」
「え⋯⋯男の人は嫌です。こういうのはやっぱ女の人が⋯⋯」
「こういうのはハッキリ言うのなお前」
「ふふ、女の子のほうが慣れてそうだもんね。はい、あとはもう少し乾かせばおっけーです」
我ながら上手に塗れた。ピカピカツルツルの指先の完成である。自分の手の上に乗せていた降谷くんの手をそっと退けようとしたその時、わたしの手をまじまじと見つめた降谷くんが呟いた。
「苗字さんの手⋯⋯綺麗」
「⋯⋯そう?」
「うん⋯⋯俺たちの手とは全然違う」
そりゃあ一応、女の子ですから。
こんな野球命の青年たちの手と比べたら、まるで違うだろうに。物珍しかったのか、わたしの手を取り観察するように眺めている。
その降谷くんの手を、横から伸びてきた一也くんの手が──ガチッと掴んだ。
一也くんの挙動にわたしも降谷くんも驚き、ぱっと顔を向ける。見上げた先の一也くんの表情には、少しばかりの怒気さえ滲んでいるように感じる。
一体、どうしたというのだろう。
「降谷。終わったんならとっとと行くぞ。やらなきゃいけねえことは盛り沢山なんだからな」
「あ⋯⋯ハイ」
「⋯⋯一也くん? 怒ってるの?」
「は? いや全然?」
「でも眉毛こんなんになってるよ」
いつもより角度が急な──つまり、釣り上がり気味の──眉の形を、人差し指で表す。何か気に障ることをしてしまっただろうか。不安げに彼を見上げる。
彼は一瞬言葉を詰めた。
時間にして、二秒ほどだろうか。
しかし流石は一也くんと言うべきか。次に口を開いたときには、いつもの表情、いつもの声音に戻っていた。
誤魔化された、と。そう思った。
「そうか? 気のせいだろ。それかもともとこんな眉毛」
「ふふ、何それ」
咄嗟に誤魔化されてしまうということは、わたしたちには知られたくない、あるいは彼自身の問題なのだろう。それならば。
触らぬ神に祟りなし、である。
「じゃあ俺らは行くわ。サンキューな、名前」
「うん。頑張って」
連れ立って離れていくその背中に、声を送った。
合宿のメニューは熾烈を極めていた。見ているだけでむこう一週間は筋肉痛に見舞われそうなほどハードだった。それを必死にこなす二、三年生と、死に物狂いで食らいつく一年生。体力差は歴然だった。
今にも倒れちゃいそう、とはらはら見守っている目の前で、ついに三人の身体が傾ぐ。
「つ、ついにお倒れに⋯⋯!」
グラウンドに大の字で倒れ動けなくなった彼らは、金丸くんたちに引き摺られるように運ばれていく。ドリンクを持って急いで追いかける。
たかが一年。されど一年。
ここでの一年がどれ程の重みなのかは、今尚動き続けている先輩たちの姿を見れば瞭然だ。どんなに苦しくても弱音を吐かない彼らの姿には、じんわりと込み上げて来るものがあった。
「⋯⋯すごい」
大量の汗を流しながらグラウンドを走る一也くんを目線で追う。同じ部活にいるからといって、毎日話すわけではない。毎日視線が合うわけではない。
それでも、彼の野球を毎日みられる。
こんな日々を過ごしていることが、奇跡のように思えた。