合宿が始まって四日目のことだ。
何故か毎晩俺の部屋に集まってくる先輩たちに、俺はほとほと困っていた。勝手にゲームは始めるわ、やれ将棋を指せ、やれマッサージをしろ。
俺が言うのもなんだけど、なんて自己中な人たちだ。
他人との共同生活に慣れてはいるが、流石にこの状況では快適な睡眠を取ることもままならない。
よって俺は新たな生贄を召喚した。
その名も沢村栄純。
その名も降谷暁。
二人を華麗に捧げ、俺はマイ枕を持って部屋を出た。二つ隣のゾノの部屋で寝るつもりだった。その前に、廊下の柵に両肘を乗せひと息つく。図らずとも、ふう、と溜め息が出た。
見上げた先には夏の夜空。
快晴だ。新月なのか、月明かりはない。雲ひとつない濃藍には、星が小さく散らばっている。
そういやあいつと関わるようになってから、空を見ることが増えたな。と、なんとなく思う。
あいつのことを考えると、何故か、緩い風に吹かれた青空を見上げる後ろ姿が浮かぶ。いつの記憶だろう。いつ、どこで見た姿だろう。思い出せない。
ただ、その後ろ姿だけが。
鮮明に記憶に残っている。
ポケットの中の携帯を取り出す。近頃めっきり減ったあいつからの着信。その履歴を見ていると、耳元で笑うあいつの声が不思議と懐かしくなった。
「⋯⋯俺だけど。今平気か?」
「えっ、びっくりした、一也くんから電話とか初めて⋯⋯何事? 買ってきてほしいもの、まだあった?」
「いや、別に用はねえんだけど」
「? そうなの?」
きっと首を傾げていることだろう。
しかし俺も、同様に首を傾げていた。何故電話をかけたのだろう。何やってんだ俺。
「一也くんは、もう寝るところ?」
「ああ、今哲さんたちから逃げてきたとこ」
「あははっ、また一也くんのお部屋に集まってるんだ」
笑った声が妙に木霊していて、違和感を覚える。いつもの声と若干違う。風邪はひいていなかったと思うし、だとしたら場所の問題か。
「なんか声響いてねぇか? お前今どこにいんの?」
「お風呂」
「ふろ⋯⋯」
ちゃぷん、と水音が聞こえた。
ついその姿を想像してしまいそうになって、かぶりを振って慌てて消す。
電話越しのこいつの声は心地良い。たいてい静かな場所で話すからか、耳元の声がやわらかく際立つ。
野球に纏わる話をしていることが多いのに、こいつと電話で話すこの時間だけは、野球のことをすっかり忘れているような。
そんな妙な感覚に包まれる。
「つーか風呂で携帯弄ってたのかよ」
「憩いの場なんだもん。ちゃんと防水だし」
「だからって寝たりすんなよ、水没はさすがにアウトだろ」
「ふふ、実は前科ありです」
「⋯⋯⋯⋯」
「あ、何その沈黙。さてはバカだなって思ったんでしょ」
「仰るとおりで」
ちゃぷ、と音がするたびに、その姿を想像してしまいそうになる。
出逢った頃はまだ小学生だった。鳴のあとをくっついて回っては、あちこちでちょっかいをかけてもらうような子どもだった。
それが今はどうだ。
まだあどけなさを残すが、大人びていく顔立ち。身体はやわらかな丸みを帯び、細やかな所作に僅かに艶が混ざる。こいつが足を捻って肩に担いだ時。腕を掴んで立ち上がらせた時。頬に触れた時。その変化を身を持って知った。
ああ、もう、子どもではないのだと。
四年の月日は俺たちを成長させるには十分だった。ちんちくりんだった俺も、いつの間にかこんな身体になっている。
変わらないのは、俺の野球に対する想い。それから、こいつの野球に対する想い。
変わらない。
本当に変わらず、想い続けてくれる。
じゃあ、俺は、名前を。
──今はどう思っているのだろう。
「おーい、もしもーし一也くーん」
「あ⋯⋯悪りぃ、ボケっとしてた」
「ううん、毎日あの練習だもん。明日も早いんだから早く寝てください」
「ああ、そうする。お前ものぼせるんじゃねえぞ。そんじゃあな」
「うん、また明日」
パチン。携帯を閉じ、柵から手を離し枕を脇に抱えた。今度こそゾノの部屋へ足を向ける。
ノックをするその直前。
もう一度だけ、夜空を見上げた。