合宿最後の二日間は、練習試合を行うこととなっていた。地獄のような五日間の果ての試合だ。試されるのは勝敗よりもむしろ、精神的な部分かもしれない。
監督たちにお願いし、この二日間はクリス先輩と一緒にベンチで記録をつけさせてもらう許可を得た。スコアの練習と銘打ったけれど、あわよくば間近で彼らの──一也くんの──プレーを感じ、彼らの思考を知りたい、という思惑のほうが大きい。
初日の対戦相手は、大阪桐生高校。昨年の甲子園、夏の準優勝校である。クリス先輩が言うには、ふむふむ、部員平均の背筋力が──
「ひゃくはちじゅっきろ?」
「発音がアホみたいだぞ」
「はっ、びっくりしてつい沢村くんみたいになっちゃいました」
180kgとは。とんだパワーチームもパワーチームである。どんなプレーをするのか。非常に楽しみだ。
それはそうと、昨年の準優勝校と練習試合を組めるあたりに、青道の強さと伝統が垣間見える。東京と大阪という離れた地区であり、同地区を相手にするより手の内を晒しやすく、またこの時期に全国レベルと対峙できる絶好の機会である。
合宿の疲れもあり、先発降谷くんの立ち上がりはすこぶる悪かった。加えて相手は桐生打線だ。普段の調子を取り戻せないまま、気付けば四回で十一失点を叩き出していた。
マウンドの降谷くんが、ぽつんと見える。俯きがちで、まるでひとりで戦っているような。
その原因は明白だった。
いつもと違い、野手が徹底して投手に声をかけようとしないのだ。⋯⋯いや、かけないようにしている、のか。伊佐敷先輩がもどかしそうにそわそわしている。
なぜ。何のために。
そう考えたとき、ふと彼の顔が浮かんだ。悪戯っぽく口角を上げて笑む、彼の顔が。ああ、そうか。きっとたぶん、いや間違いなく首謀者は一也くんだ。こんなやり方をするのは、彼に違いない。
ただ全力で投げることしか知らない降谷くんに、身を持ってコントロールやペース配分の重要性を教えようとしているのか。
──降谷くん。
顔を上げて周りを見てみて。あなたはもう、ひとりじゃない。こんなに頼もしい仲間に囲まれている。ひとりで戦わなくていいんだよ。
そのことに気付けたら、気持ちに余裕が生まれ、彼本来の球が投げられる⋯⋯ような気がするのに。
しかしそのことに自分で気付けるのなら、苦労はしないのだ。今頃こんな思いはしていない。
彼の故郷、雪国北海道。
そこでは彼の球を、野球への熱を、受け止めてくれる仲間に恵まれなかった。それでも野球がしたくて、壁に向かって投げ続けたこともあるという。
雪の舞う冬の日さえ。ひとりで。
この状況は、青道ナインにも考えがあってのこと。わかってはいるけれど、傍から見ているだけというのも結構辛い。せめてもの抵抗のつもりで、クリス先輩に甘えてみる。
「クリス先輩⋯⋯なんだかそろそろしんどいです」
「⋯⋯もう少し待ってろ」
そう告げるクリス先輩の眉が若干顰められた。焦れったいのはわたしだけじゃない、か。
ハラハラしながら見守っていると、ついに降谷くんがタイムを取った。さすがに精神が限界だろうか。マスクを外した一也くんが、小走りで駆け寄る。
彼は、どんなふうに伝えるのだろう。自分たち仲間の存在を。その仲間からの信頼を。もう、ひとりじゃないということを、どんな言葉で。
聞きたい。すごく聞きたい。
わたしにも聞こえるように大きな声で話してくれないかな、なんて考えていた時だ。
「はっはっはっはっは!」
突然、グラウンド中に一也くんの笑い声が響いた。
沢村くんや桐生の監督はキョトンとしているし、当の降谷くんも、何故笑うんだこの人は⋯⋯と言いたげな顔をしている。何かまた、彼のツボをくすぐることを言ったのだろう。
聞きたい。こちらもすごく聞きたい。
なぜマウンドはあんなに遠くにあるのだろう。会話がまるで聞こえないではないか。
「ふふ、一也くん楽しそう」
「⋯⋯お前が御幸を見る時の目は、優しいんだな」
「な、何ですかそのお母さんみたいなポジション」
「母親みたいとは言っていないが⋯⋯無自覚なのか」
「⋯⋯一也くんが楽しそうだと、わたしも楽しいだけです」
「そうか」
穏やかに笑み、頷いてくれるクリス先輩こそが、優しさの権化のようだ。なんて出来た人なんだろう。野球に関することだけでなく、人としての何たるかを学ばせてもらいたい。