タイムのあとから、降谷くんの球に力が戻った。一也くんの言葉が効いたのだろう。
信頼、か。
いいなあ。
わたしにはまだ遠いものだ。
うるせぇな、と突き放された時のことが蘇る。気にしないと、へこたれないと決めたはずだった。しかしあの言葉が不意にこうして襲いかかり、未だに指先が震える。
ぎゅ、と目を瞑る。そっと指先を握る。
「⋯⋯どうした、苗字?」
「⋯⋯なんだかさっきの風で砂入っちゃって、目開けれません」
「頑張れ。御幸の打順だぞ」
「ぐう⋯⋯それは頑張ります」
クリス先輩に一也くんとのことを話したことはない。きっと一也くんも話さないはずだ。しかし今の口振りからは、わたしの気持ちに少しばかりか気付いているように思う。
問うてくるわけではなく、かといって押し付けがましくもない。至極自然な会話だった。
クリス先輩はこんなところまで大人だ。
その回を守りきり、九人がベンチへと戻って来る。そのまま打席へと移動する一也くんが、降谷くんに向かって言葉を投げる。
「さてと⋯⋯点でも取ってくるかな。誰かさんのために」
息を吹き返した我らが投手のために、自ら点を取る宣言である。これを聞いた降谷くんは、驚いた表情を見せた。
しかし悲しきかな、彼から打順が始まるということは、ランナーがいないということである。ランナーがいない時の彼のバッティングは、──よくない。あんなに格好いい台詞を残して打席に立ったその結果はしかし、呆気なくピッチャーゴロに終わる。
一也くんを見る眼差しに、一瞬尊敬さえ映ったように見えた降谷くんが、ベンチでズルっとずっこけた。
「あはっ、さすがランナーなし一也くん」
「あのバカ⋯⋯」
高島先生は頭を抱えている。
「ランナーがいたら別人なんですがね、御幸は」
「ムラがありすぎるのよ」
結局三者凡退に終わり、──次の守備の時のことだ。
降谷くんの投球を見た誰もが、驚きに目を丸くした。一気にざわめきがグラウンドを取り巻く。
「な、なんだ今の球⋯⋯」
「ストレートが沈んだ?!」
「わかんねェ⋯⋯けど、御幸が後ろに逸らすなんて初めて見たぞ」
皆が口々に言う。
ストレートに見えた球が、打者の手元で急激に変化した。バットは宙を切り、球はミットをすり抜け一也くんの後ろへ転がった。
「一也くんが逸らすなんて⋯⋯え、てことは、今の球投げたのぶっつけ本番ってことですか?」
「多分そうだろう。御幸が捕れないくらいだからな」
答えてくれたのは、まさかの監督だった。
「なんてこった⋯⋯、です」
ぶっつけ本番で変化球を投げさせる彼にも、突然返答をくれた監督にも驚いた。なんてこった。思わずそんな言葉が零れる。
クリス先輩が問うてくる。
「今の球⋯⋯どうだ。どう見る?」
「ストレートから落ちる球⋯⋯フォーク? を投げたかったのかな、と思いますけど、でも今のは⋯⋯あんな変化をするのはフォークって言うんですか?」
「いや⋯⋯慣れていない降谷のことだ、はさみ込みが甘かったか⋯⋯あとで近くで見せてもらいたいものだな」
こくんと頷く。
楽しい。どんどん新しい彼がみられる。
そして皆が口を揃えて言う「御幸が後ろに逸らすなんて」という言葉が、自分のことのように嬉しかった。
六回からは沢村くんが登板した。バックの活躍もありその回を無失点に抑えベンチへ戻った彼に、今目の前で、一也くんからのダメ出しが炸裂していた。
故に沢村くんの顔は、現在非常に不細工だ。
「甘い所ばっか投げてたら、いつ点を取られてもおかしくねーぞ」
「つーかインコースしか構えてねーじゃん! もっと色んなトコに構えてくれたら俺だって⋯⋯」
安定のタメ口で出た反撃は、「は? 今なんて? もっかい言ってくれよ」とめちゃくちゃ意地悪な笑顔で容易くあしらわれている。
「ふふっ、沢村くんも大変だね」
「冗談、大変なのはコッチ。俺のほうだろ」
「一也くんはすごく楽しそうだよ。⋯⋯ね、沢村くん、相手のピッチング見てみて。さっきの一也くんと同じとこに構えてるよ」
「え?」
「そうそう、いいか?」
インコース攻めの意味を、一也くんが説明していく。彼の言葉もクリス先輩同様にわかりやすい。おこぼれに与りながら、わたしも自身の頭にインプットしていく。