川原のグラウンドで行われていた練習試合だったので、すぐに兄のところへ駆け付けられた。
「お兄──」
お兄ちゃん、と。
掛けかけた声を慌てて止めた。わたしが声をかけるより僅かに早く、兄に話しかけた人物があったからだ。
「そんな騒ぐなよ、鳴」
「はあ?! 一也にだけは言われたくないね! お前ほんっとやなヤツ!」
「ははっ」
彼だった。この試合中、見つめ続けた彼が目の前にいた。
どっくん。どっくん。心臓が飛び跳ねる。
例えば野球少年がプロ野球選手に会ったとき。例えば有名人のファンクラブ会員が本人に会ったとき。こんなふうに心臓が痛むのかもしれない。
苦しい。痛い。胸が締め付けられる。全身に急速に血液が巡らされて、頬が火照る。ただでさえ暑いのに、手のひらにさらに汗が纏わりついた。
「鳴お前、最後のコース、狙ってただろ」
「⋯⋯だったら何だよ」
「俺も狙ってた、うふ」
兄に一也と呼ばれた彼は、語尾にハートまで付けて、非常に意地悪な笑顔を浮かべた。
ああ、お兄ちゃんの頭の血管がたくさん切れる音が聞こえる。そして多分この人はアレだ。きっとすごく性格が悪いんだ。間違いない。
掴みかからんばかりの兄の右手を──利き手とは反対の右手を──なんとか捕まえる。
兄の左手には触れたくない。触れてはいけない聖域のような、そんな気がするから。だから、兄が野球を始めてこのかた。わたしは兄の左手に触れたことがないと思う。
「離せ! 殴らせろ! 誰だよ⋯⋯って名前か」
「お疲れさま。はいドリンク」
「名前、今までどこに居たんだよ。お前の応援全っ然聞こえなかった!」
拗ねたように口を尖らせながらも、ドリンクはしっかりと受け取りゴクゴク流し込んでくれた。
兄は、わたしの声援が聞こえると元気が出ると言ってくれる。幼い頃からだった。元気が出ると言ってもらえると、わたしまで嬉しい。それにわたしも、兄が野球をする姿が大好きだった。
だからわたしは、出来るだけ兄の試合や練習について来ていた。ともに笑ってともに泣いて。兄の野球が、わたしの野球みたいなものだった。
──この日までは。
「え、と、ごめんね、あまりの暑さにへばっちゃって。佐藤のおばさんの日傘に入れてもらってた」
誰だろう、佐藤のおばさんって。
咄嗟に上手な言い訳が出来ず、架空のおばちゃんを作り上げてしまった。幸いなことに誰彼構わず当たり散らしている兄は、そのことに気付かなかったけれど。
対して彼はと言えば、突然登場したわたしと兄を交互に見て、含みをもたせた笑みを浮かべていた。
「なに、鳴の彼女? 急にしおらしくなっちゃって」
「お前はもうウルサイ! どっか行け! あと彼女だとしてもお前にだけは教えないねバーカ!」
「バカってちょっと! もう⋯⋯お兄ちゃんがほんと、ほんとにごめんなさい」
ガルルル。
今度は噛み付きそうな兄の右腕にむんずと抱きつきながら、彼を見上げた。
ぱちくり。眼鏡の奥の瞳が一度瞬いて、わたしを映した。彼がわたしを見ている。そう意識した途端、ぼん! と頬に身体中の熱が集まって、呼吸が震えた。