08.トワイライト


「さて沢村くん」
「⋯⋯はい」 
「わからないところはどこですか」
「⋯⋯わ、」
「わ?」
「⋯⋯わからないところがわかりません」


 ぺちーん!

 なんとも間の抜けた音が響いた。沢村くんの後頭部を、金丸くんのハリセン(手作り)が叩いた音である。

 来たる期末テストに向け、わたしと金丸くんは、沢村くんのお勉強に付き合っていた。クリス先輩に直々に頼まれたこともあり、わたしたちには気合が入っている。追試になればそれだけ練習時間が削られ、沢村くんの仕上がりが試合に間に合わなくなってしまう。

 先日の練習試合、対修北戦で顎の骨にヒビが入るという大怪我をしてしまった丹波先輩の穴を、皆で埋めねばならぬのだ。沢村くんにだって、いつ出番が回ってくるかわからない。追試などに割いていられる時間などない。

 昼食のサンドイッチを片手に、広げたノートを捲る。
 

「こりゃ重症だ⋯⋯どこから手つけたらいいんだろ。もう、なんで普段から勉強しておかないの」
「普段から勉強してるやつなどおらん!」
「皆やってるっつーの!」


 ぺちーん!
 またもハリセンが沢村くんの後頭部を捉えた。この調子だと、試験が終わる頃にはハリセンのほうがボロボロになっているかもしれない。


「どうしよ、金丸くん」
「⋯⋯ヤマはらすしかねえだろ、時間ねえし。一夜漬けでいいからとにかく詰め込め!」
「へい⋯⋯」


 教室のカーテンが揺れる。校舎の喧騒が遠い。毎日野球漬けだから、時折、自分が高校生なのだということを忘れそうになる。

 余計なものをすべて取り払って、剥き出しのわたしで、空の下にただ在る。野球に触れていると、そんな浮世離れした感覚に不意に包まれることがある。

 野球はまるで、──世界の入り口のようだ。

 そんなふうにさえ思うことがある。

 だから今、こんな時間は高校生っぽいな、なんて思う。忘れがちだけれど、学生の本文は勉強なのである。


「っはぁ〜〜〜〜やっと終わった⋯⋯苗字お主⋯⋯意外とスパルタ⋯⋯」
「お疲れさま。では金丸くん」
「オウ」
「夜の部はお頼みします!」
「オウ、任せろ」


 ナヌ?! と顔を青くする沢村くんに、ひらひらと手を振る。日中はできるだけわたしが、夜は寮で金丸くんが沢村くんのお相手をすることになっている。

 机に突っ伏し、深い溜め息を吐く彼を暫く見守る。金丸くんはさっさと教室を出て行ってしまった。彼はぼーっと宙を見つめてから、携帯を取り出し眺め始めた。


「⋯⋯メール、彼女?」
「なッ、お前まで何言って⋯⋯! さてはあいつだな?! 倉持先輩だな?! あることないことぬかしおって〜〜!」
「若菜ちゃんっていうんでしょ」
「な、名前まで! 違ぇんだよ、ただの幼馴染なんだって」
「⋯⋯すきなの?」
「すっ⋯⋯?! いや、好きとかそういうんじゃ⋯⋯つーか俺そういうの良くわかんねぇし」


 慌てる彼が微笑ましい。親元を離れ野球に明け暮れる彼にとって、きっと、どこかで心の支えとなっている存在なのだろう。


「そういうお前はどうなんだよ」
「なにが?」
「好きとか⋯⋯わかんのか」
「ふふ、わかるよ」
「なぬ⋯⋯お主さては大人だな⋯⋯」
「⋯⋯何言ってるの?」


 すき、はわかる。

 しかしその先はわからない。
 わたしは一也くんに、どう思われたいのか。

 わたしを見てもらえると嬉しい。触れられると苦しい。もう、ただ、彼の野球を傍で見ていたいだけの欲求ではなくなってしまった。

 なんて強欲なんだろう。
 ひとつが叶うと、さらに次のひとつが欲しくなる。彼への想いが留まってくれない。この想いがいつか迷惑をかけてしまいそうで、重荷になってしまいそうで。それが少し怖い。

 沢村くん。わかるけど、でも、──わかんないや。

 胸の内で返事をし直した。


「⋯⋯じゃあ沢村くん。夜、金丸くんに教わる前までにこれ全部覚えておいてね」
「ヒィ〜〜〜!」


 ドドン! と彼の目の前にノートを積み上げる。絶叫が教室に木霊した。

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