08.トワイライト


「予選近づいてきたら、なんか鳴の気持ちがわかるようになった気がするっつーか」
「お兄ちゃんの?」


 首を傾げて彼を見遣る。既にスポサンから眼鏡に替えた彼と視線が交わって、


「⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯?」
「⋯⋯やっぱいい。とにかくそれ付けて」
「えっ、今の沈黙なに?!」


 何だろう。すごく気になる。

 今はわからないけれど、寮生活を始める前までは、兄の背番号は母が縫っていたのだと思う。少なくともわたしは一度も縫ったことがない。それに、兄にお守りなどを渡したこともない。昨年の甲子園後の兄を見た後でさえ、兄の強さを疑ったことはない。

 では、彼の言う兄の気持ちとは一体何なのか。まったく想像ができない。聞こうかと思ったけれど、なんとなく彼は言わないような気がした。ので、やめた。

 こういうことは時に諦めも肝心である。


「一也くんがいいなら、喜んで縫うけど⋯⋯ちょっと歪になっても怒んないでね」
「ははっ、よっぽどじゃなきゃな」
「くう、頑張ります」


 彼から背番号やユニフォームを受け取り、階段の最上段に腰かける。背番号はニ。いつも彼の背中を守る、この数字が好きだ。

 ユニフォームの後ろ身頃に背番号をあてがい、位置を測る。すると、彼が横に腰を下ろした。


「あ、練習してきていいよ。日暮れまでに終わんなかったら持って帰るし」
「んや、俺もちょい休憩」
「⋯⋯そう?」


 隣で見られるのは、正直緊張する。しかしそれよりも、わたしに頼んでくれた嬉しさが勝った。ダメ出しされても最後まで縫いたい。

 お守り、ではないけれど。怪我することなく、彼が彼の野球をできますようにと。真心こめて縫わせていただきます。


「この辺でいい?」
「付いてればいいよ、適当で」
「⋯⋯お守りとか言う割に適当だなあ」


 これが彼のユニフォーム。こうして見ると、その背中の大きさが際立つ。太ももの上にそれを乗せていると、酷く特別なことをしている感覚に陥りそうだった。

 その特別感に引き摺られて、つい。想いが溢れてしまいそうになった。それを慌てて押し留める。

 わたしはそこで、はたと動きを止めた。

 何故、今、押し留めたのだろう。何故そのまま伝えることが出来なかったのだろう。というか、何故今まで伝えなかったのだろう。

 彼の「野球」への想いは幾度となく、直球ストレートど真ん中で放り投げてきたくせに。思慕を言葉にしてしまうことを、避けていた自分がいる。

 無意識に畏怖を抱いていたのだろうか。自分を拒絶されるのが、彼のそばで流れるこの日々がなくなってしまうのが、怖いから。

 彼の本心を知ってしまうのが、──怖いから。

 しかし、いつまでも留めておける想いではない。一生このまま、抱えていけるような想いではない。わたしはそんなに強くない。このままではいつかきっと、この想いの大きさに、わたしのこころが潰れてしまう。わたしの身が焦げてしまう。こころの縁まで溢れた想いは、コップの縁でぷくりと揺れ留まる液体のように、ぎりぎりのところで留まっている。いつ溢れたとておかしくない。

 身の内に巣食うものの大きさに押し出されるように、溜め息がひとつ零れる。それとともにパチン、と小さなハサミで糸を切った。



 気付けば手元はすっかり夕陽の金赤に染まっていて、わたしははっと顔を上げた。随分と陽が傾き、見渡す景色が濃い橙に沈んでいる。

 色々と夢中になりすぎて、時間はおろか、彼のことさえ忘れていた。慌てて隣を向くと、彼は自身の腕を枕にするようにして、アスファルトに仰向けに転がっていた。振り向いたわたしに気付いた彼の視線が、わたしを捉える。


「お。終わったか?」
「うん、我ながらそこそこ上手に出来たけど⋯⋯一也くんはいつの間にそんな寛いでたの」
「だいぶ序盤。話しかけても空返事だったから」
「なんと⋯⋯ごめん、全然気付かなかった」
「いや、謝ることじゃねぇよ。頼んだの俺だし」


 彼の表情は穏やかで、むしろ微かな笑みさえ湛えている。
 練習時間を潰したうえ、手持ち無沙汰にしてしまったのに、怒ってはいないようだ。本当にただ休憩したかっただけなのかもしれない。

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