なんなの。なんなの。
「もう、なんなの!」
「どうした、急に大声出して」
「はっ、クリス先輩いたんだった⋯⋯ごめんなさい」
「隣にいたのに存在感なくてすまなかったな」
「ち、違います〜〜!」
背番号を縫った翌日のことだ。
わたしとクリス先輩は、昼休みに高島先生に呼ばれ職員室に向かっていた。のだけれど、昨日のことを考えすぎて、つい声に出してしまった。
昨日のことが頭から離れない。
思考を彼が占拠して離れない。
おかげで昨日の晩御飯の内容は覚えていないし、お風呂では湯船に浸かり過ぎて、溺れたのかと心配した二番目の姉が突入してきた。午前中の授業に至っては、何の科目だったかすら覚えていない。
何よりも、抱きしめられた感触が消えない。
耳朶を掠めた吐息の熱さが、──消えない。
「どうした? 何かあったのか、御幸と」
「⋯⋯クリス先輩は何でそんなに鋭いんですか」
「お前が分かり易いだけだ」
「⋯⋯でも、一也くんの名前すら出してないのに」
鋭すぎて、思わずぷうと頬を膨らませる。それを見たクリス先輩は、拗ねるな、と笑った。
「一也くんは、野球以外だとどうしてこんなに不器用なんでしょう」
「野球に全振りしてるんだろう。⋯⋯お前が誰かに話したほうが楽になるなら、いくらでも聞くが」
「う、や⋯⋯クリス先輩にお話できるようなことではありませぬ! そのお気持ちだけありがたく頂戴しやす!」
詳細なんて話せない。わけもわからず抱きしめられて、よくわからない言い逃げをされました、なんて。わからないことだらけなのに、死にそうなほどドキドキしました、なんて。
こんなこと誰にも話せない。
そして話せるほど状況を理解出来てもいない。
「苗字⋯⋯口調が沢村みたいになってるぞ。そんなに参ってるのか。⋯⋯御幸も悪いヤツだな」
「⋯⋯まったくです」
本当にまったくです。
夏の大会が終わるまで待っててくれ、だなんて。わたしは一体、何を待てばいいのか。その期間をどう過ごしたらいいのか。
期待してしまっていいのだろうか。彼の言動を素直に考えていいのだろうか。四年近くまったく相手にされていないと思っていたのだ。突然こんなこと起こるほうがおかしい。糠喜びとなってしまうのが怖い。
やはり無の心でいよう。心頭滅却。平常心でこれまで通り。
⋯⋯出来るだろうか。
「っはあ〜〜〜〜〜」
大きな大きな溜め息が出たのは言うまでもない。
職員室に入り、高島先生に声をかける。
「失礼します」
「ああ、いらっしゃい。⋯⋯あら苗字さん、寝不足? 心無しか隈できてない?」
「どっかの誰かのせいです⋯⋯」
「フフ⋯⋯御幸君ったら悪い子ね。女の子を悩ませるなんて」
この一言にわたしは驚愕した。
「⋯⋯わたしってそんなにわかりやすいですか」
「ええ」
何の躊躇もなく首肯された。
やだ怖い。クリス先輩に続いて高島先生まで。この人たち、盗聴器でも仕掛けてるんじゃなかろうか。
そしてわたしは自分に対する評価が甘いのかもしれない。こんなに多方面に筒抜けだなんて。
色恋事情を部活に持ち込む気はまったくないし、絶対に迷惑もかけたくない。気を引き締めなければ。
「ごめんなさい⋯⋯気を付けます」
「いいのよ、こういう気持ちは不可抗力だもの。それに、周りに迷惑はかかってないし、個人的には楽しませてもらってるし。ね、クリス君?」
これに対し、クリス先輩は意味深な笑顔を浮かべただけだった。高島先生と微笑し合っている。その笑顔やめてください。怖いです。
「まあ、御幸君のことだからプレーに支障はないでしょうけど⋯⋯もし貴女が切り離して考えられないようなら、相談してちょうだいね。一応私も女だし」
「お、お優しい⋯⋯お兄さま、お姉さま、ありがとうございます」
「だから沢村みたいになってるぞ。お兄さまってなんだ」
「ふふ」
クリス先輩の言葉を笑顔で流す。
わたしの兄はあんな感じの腕白少年タイプだから、クリス先輩のような穏やかで物静かで優しくてetc、みたいなタイプの兄は新鮮だ。
いや、先輩であって兄ではないのだけれど。何を言っているんだろうわたしは。一也くんのせいで、思考が一気に阿呆っぽくなってしまった。