09.夏が世界にこびりつく



 敵情視察に来ていたわたしは、視線をグラウンドに注ぎながら聴覚にも意識を集中させていた。結構大変だ。頭がこんがらがりそうになる。


「あいつは昔からコントロールがなあ」
「三兄弟の真ん中だったか?」
「未だに母ちゃんのカレーが大好物って言ってたぞ」
「そういやこの間、なんか彼女っぽいのと歩いてるの見たな」


 出るわ出るわ、情報がわんさか出る。個人情報とは、と心配になるくらいには出る。特段聞き耳を立てているわけではないのだけれど、聞こえてきてしまうのだから仕方がない。
 
 今日はクリス先輩たちはスタンドの高いところからビデオ撮影とスコア付けをしている。わたしはグラウンドに近い席に腰掛け、ベンチの様子を伺いながら控え投手のアップの様子等も見ていた。スタンドに座っているだけであちこちから様々な情報が入ってくるし、近くで何かを呟けば、レスポンスが返ってきたりする。先程は「結構いい肩してるなぁ」とひとり言のつもりで呟いたら、遠投の記録を教えてくれたりした。

 その場でメモするわけにもいかず、懸命に頭に叩き込む。何か変だな、と違和感を感じたプレーも記憶に留め、クリス先輩に報告する。たいていはクリス先輩も気付いていることだから、これに関しては寧ろわたしの勉強のようになってしまっていた。


「家族構成に趣味、友人関係⋯⋯お前、スパイにでもなるつもりか?」
「ふふ、皆が勝手に喋るんです。頭パンクしそう。⋯⋯でもこんな情報いりますか? 相手の投手がドルオタだなんて情報」
「⋯⋯⋯⋯いる、かもしれん」
「⋯⋯なんだか無理矢理言わせてごめんなさい」


 得た情報はクリス先輩がノートにまとめ、試合前に行われるミーティングで選手に伝えられる。その様子を、わたしは部屋の隅っこで見ていた。自分が少しでもチームの役に立っているのだと実感するのは、少し面映ゆく、そして誇らしい。

 ──いよいよだ。
 いよいよ、青道の甲子園をかけた戦いが始まろうとしている。

 一発勝負のトーナメント。僅かな気の緩みが命取りになる。シードとはいえ、初戦から油断は全く出来ない。皆の緊張がぴりぴりと伝わってきて、気付けば息を潜めている自分がいた。





 そのミーティングの後、クリス先輩たちと次の偵察の予定を練っていた時だ。なんとなく彼がこちらに近付いて来るような気配を察知し、わたしは咄嗟にクリス先輩に助けを求めた。


「はっ、クリス先輩!」
「どうした」
「かっ、一也くんがこっち来ます⋯⋯! し、心頭滅却! 無の心!」
「⋯⋯何言ってる、大丈夫か?」
「や、やっぱり普段通りなんて無理! クリス先輩、わたしのこと隠してください!」


 了承を得る前に、さっとクリス先輩の影に隠れる。
 やっぱり無理だ。無の心なんて無理。どんな顔をして、どんなふうに彼と接すればいいのだろう。わからない。助けてください。

 こんなささやかな抵抗も虚しく彼はやってきて、

 
「⋯⋯何してんだお前、かくれんぼか?」


 いつも通りの彼の声が、ぎゅっと瞑った瞼の上に降ってきた。まるでこの間の出来事などなかったかのような、平常運転の声音だ。

 まさに、わたしの心など露知らず。

 そのあまりにも何事もなかった感に、わたしはずっこけながらクリス先輩の影から顔を覗かせた。


「⋯⋯これがかくれんぼに見えますか」
「何怒ってんだ?」
「んんんもう! 何でもないです! わたしが悪かったです!」


 思わず噛み付くように返答した。

 彼は何とも思っていないのだろうか。こんなに考えているのはわたしだけなのだろうか。こんなにも普段通りだと、先日のことが夢だったんじゃないかという気にさえなる。


「あんまり虐めてやるな、御幸」
「はっはっはっ、いやぁつい。こいつ揶揄い甲斐あって」
「えっ、わざとだったの」


 けたけたと笑う一也くんに、わたしはジトっとした目を向ける。そうだった。最近沢村くんたちの影で鳴りを潜めていたけれど、彼も特段自己中なタイプだった。今の台詞が出るということは、あの日の事を踏まえた上での「いつも通り」ということである。

 なんだか物凄く恨めしい。

 しかしどこか安心した自分がいることも事実だった。

 あんなふうに衝動的に想いを告げてしまった。後悔は全くしていないけれど、わたしが最も恐れていたのは、これまで通りの日常が壊れてしまうことだったから。

 もしかしたらこれは、彼なりの気遣いなのかもしれない。⋯⋯もしかしたら、だけれど。

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