09.夏が世界にこびりつく


 そう思うと、彼の行動を寧ろありがたく感じた。つい今しがた恨めしいと思ったはずなのに。これが惚れた弱みというやつなのだろうか。

 わたしは腹を括った。大会が終わるまで待てと言うのだから、大人しく待とう。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」だ。

 いやちょっと違うか。

 まあとにかく、自分の中でそれなりの落とし所を見つけた。気を取り直して彼に問う。


「何か用あったの?」
「そうだった、相手の守備もっかい確認したくてさ。ビデオ借りていいか?」
「うん。明日試合なんだから遅くならないようにね」
「ああ。お前も早く帰れよ」


 ぽん、と彼の手のひらが頭に乗って、ひと呼吸分。僅かの時間だったけれど、優しく目元を緩めた彼の瞳が、──確かにわたしを見つめた。

 そっと手が離れて、ビデオを手にした彼が離れていく。彼が触れた頭頂部を押さえながら見送っていると、クリス先輩に声をかけられた。


「よかったな、苗字」
「⋯⋯な、何がですか」
「お前、御幸がここに来てから⋯⋯ずっと泣きそうな顔してたぞ」
「⋯⋯⋯⋯え、」
「御幸も気付いてたと思うぞ。だからこその去り際のあの表情だろう」


 自分の感情を持て余す。把握出来ない。コントロール出来ない。あの日、夕陽に染められてから。わたしのこころは、定まることのない水面みなものように揺らぎ続けている。


「⋯⋯ごめんなさい。そして筒抜け過ぎて、自分が恥ずかしいです」
「謝らなくていいからそんな顔するな。何があったかは知らないが、お前が元気じゃないと俺も調子が狂う」
「⋯⋯ふふ、お兄さま。はい、もう大丈夫です」
「だから誰がお兄さまだ。ほら、次の試合の準備終わらせるぞ」


 皆がクリス先輩を慕うのがよくわかる。先輩の言葉は、乱れたこころを穏やかに凪がせる。

 本当に大きなひとだ。

 大会中は出来るだけたくさん教えてもらおう。この夏が終わってしまえば、三年生はもう──いなくなってしまうのだから。





 青道は初戦と二回戦をどちらもコールド勝ちという上々の結果で終えた。スタンドの荷物を片付けていた手を止め、球場を見渡す。

 試合の空気。この時だけの、言いようのない高揚感。何時、何度体感しても胸が高鳴る。どんな時でも変わらない。

 ──野球が好きだ。

 外野の奥で揺れる芝生のひと草さえ、愛おしく思う。試合は、この気持ちを思い出させてくれる。日々の「当たり前」に埋もれてしまいそうな、この気持ちを。

 荷物をまとめ、一旦球場の外に集合すると「次もがんばれよー!」「また応援に来るからなー!」と、たくさんの声援が待っていた。監督にも「監督ー!」「グラサーン!」「片岡!」と口々に声がかけられる。ちょ、ちょっと、グラサンって沢村くんじゃないんだから⋯⋯っていうか本人に向かって凄い度胸だ。よく怒らないな監督。
 
 眉一つ動かさずに声援を受けていた監督が告げる。


「各自ストレッチが終わったらスタンドで食事を取れ! 次の試合、全員で観戦するぞ」
 

 青道はシードだから、次の試合はトーナメント上だと四回戦ということになる。この次に行われる試合の勝者と、四回戦を戦うのだ。

 制服に着替え、再度スタンドに移動し選手たちにお弁当と飲み物を配る。暑い。今年も今年とてすごい暑さだ。


「はい、降谷くんお弁当⋯⋯って大丈夫? おーい!」
 呆けていた彼の顔を覗き込む。

「⋯⋯⋯⋯暑い」
「うん、暑いね。今年はいつもより暑くなるってニュースで──」


 そこではたと気付く。
 彼は、降谷くんは、東京の夏が初体験なのだということに。雪国出身の彼にとって、この暑さは未知のものだろう。どことなく焦点をぼかした彼のまなこに、一抹の不安が過ぎった。もし彼が、この暑さに順応出来なかったら。

 夏の本番はこれからだ。もっともっと暑くなる。炎天下、本来の力を出し切る投球が出来るだろうか。


「⋯⋯ねえ、ほんとに大丈夫? ほらこれ、うちわあげる。冷やし過ぎもよくないから冷やすのは控え目に⋯⋯ってだめだ、今日先発した投手に扇がせるなんて! やっぱりわたしが扇ぐ!」


 自分でうちわを渡しておきながら、それを奪い取る。まったく進まない彼のお箸を横目に、風を送り続ける。

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