02.あなたというひと


 そんなわたしの様子に気づいたふうもなく、彼は唇だけで「へえ」と形を作ってから、兄を指差した。


「お兄ちゃん、って、こいつ?」
「あ、妹の名前です、お世話に──」


 なってます。
 そう続けたかった言葉を、兄がものすごい勢いで遮った。


「一也に自己紹介なんかすんな! もったいない!」
「もったいないって⋯⋯お兄ちゃん何言ってるの? あの、お名前は」
「俺? 御幸一也」
「一也、さん」
「あー、敬語なんかいらないから。よろしく、名前ちゃん」
「⋯⋯うん」


 ぎこちなく頷いた。
 兄にくっついて回っているためか、兄の同級生や先輩と話す機会は多い。馴染みの顔も多く、彼らともまた自分の兄のような気持ちで接していたから、敬語は苦手だ。だから、彼の申し出は正直ありがたかった。

 みゆきかずや。
 彼の名前をこころの中で繰り返す。


「ちゃん?! 今名前ちゃんって呼んだ?! 一也が名前をちゃん付けで呼ぶなんて百億年早いね!」
「じゃあ名前」
「そうじゃない!」
「はははっ、俺の勝ち」


 最早じゃれついているようにしか見えなくなってきた二人の言い合いを、苦笑いで見守る。

 この仲良し具合──なんて言ったら怒られそうだけれど──から、きっと何度か対戦したことがあるのだろうとわかる。わたしが風邪を引いたり、寝坊したり。そんな理由で来られなかったときに、きっと、何度か。

 もっと早くに出逢っていたかったな、だなんて月並な感情を抑えられなかった。まだ小学生だったのに、そんなことを思ったのだ。

 後悔先に立たず。
 善は急げ。
 思い立ったが吉日。

 そんな感じのことがその頃のモットーだったわたしは、伝えたいことはすぐに伝えるべし、と兄が監督に呼ばれた隙に行動に移した。


「⋯⋯一也くんの野球、その、素敵だね。こんなにワクワクしたの、お兄ちゃん以外はじめてだった」
「ん? まぁ最後のを打てたのはよかったけど、まだまだ」
「そっか。ふふ、楽しみ」
「楽しみにしててくれていいよ。俺はもっと上手くなる」


 きっと彼の言う通り、技術やなんかはまだまだなのだろう。何と言ってもまだ中学生だし。けれどわたしには、このひとの野球がどうしようもなく眩しく刺さる。理屈ではないのだ。

 見ているだけで胸が高鳴って、祈る心地になって、時には涙が出そうになる。

 そんな野球をするひと。

 強い瞳で拳を握る彼を見て思う。
 このひとも、兄と同じだ。負けず嫌いで、確かな実力に裏打ちされた自信が漲っている。


「一也くん、て⋯⋯かっこいいね」
「?」
「⋯⋯ううん、何でもない。またみにくるね」


 かっこいい?
 と疑問符を浮かべた彼に手を振り、その場を去った。これ以上は、心臓がもたなかった。

 緊張して、思考も唇も強張って、上手に伝えられなかった。それが悔しい。

 全速力で走る。青空に向かって大声で叫びたい気分だった。

 このひとの野球をもっとみたい。
 このひとのことをもっと知りたい。

 もっと、もっと、もっと。



 これが。この日が。紛れもなく。

 わたしの恋の、──はじまりだった





 ◇あなたというひと◆

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